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試し読み「一 桜 春愁」

 往来に桜の花びらが降りかかった。

 水央(みお)は目の前に零れてきた桜の花びらを手のひらで受け止める。

 花びらはすぐに春の柔らかい風が攫っていってしまった。

 桜が散る青空を見上げていると人にぶつかりかけた。水央は身を逸らして歩みを再開する。通りは人で溢れかえっている。

 

 大通りは中央に水路が通い、その左右に柳並木と白石で舗装された道がある。石の白と木の黒で組まれた街並みに、薄紅色の桜と青い若柳が交互に織られた春の錦が眩しい。

 往来では人々の明るい話し声が春空に吸い込まれている。

 水央が都で一番好きな風景だった。

 何気なく歩いていると、人にぶつかった老人がよろけた。水央は慌ててその老人の背を支える。

「おお、これは、白桜の武家の若様」

「大丈夫か? 今日は人出が多いからな」

 水央はほっとした様子の老人を、そのまますぐ近くの家まで送っていった。

 老人は玄関脇に置かれた床几に腰かけた。

「助かりました、若様」

「困ったことがあったら、いつでも言ってくれよ」

「若様は、今日は白桜の花守はよろしいのですかな?」

「ああ、今日は昼で交代なんだ」

「それでは、白桜のあの話は聞いておりませんか」

「あの話? 何のことだ?」

 水央は、この都の鎮守である白桜を守る武士の子だ。

 水央の一族は白桜の傍に昔から住む武家で、今も白桜を守り続けている。

 水央はお役目にひたむきなほど生真面目ではないが、幼い頃から守れと教え込まれた白桜のこととなると気にかかる。

「今朝、白桜神社にお参りしたとき、宮司様が思い悩んでいるようなご様子だった。あれは何かあったのではないかね」

「そうか。それじゃ俺も話を聞きに行ってみるよ」

「若様、そのことはもう武家のご当主様がご存知だと……」

「教えてくれてありがとう!」

 水央は老人に声を投げかけながら走り出した。

 来た道を戻る。屋敷と大通りを繋ぐ太鼓橋を渡る。

 真下の水路を、荷を載せた舟と船頭が通り過ぎた。都中を巡る水路は人や物が渡る道なので、毎日舟が行き交う。

 花守の武家屋敷が見えた。屋敷には戻らず、塀を回って屋敷の裏側にある白桜神社へ向かった。白桜を中央に挟んで、武家屋敷と神社が背中合わせに建っているのだ。

 屋敷を迂回すればそのまま北側にある白桜神社に行ける。

 鎮守の白桜は、都を守る土地神――塞ノ神(さいのかみ)だ。

 白い花を咲かせる植物は、この古清水(こしみず)の地では古くから塞ノ神として尊ばれ、信仰を集めてきた。

 齢千年を数える白桜は都で最も大きく古い塞ノ神だ。

 古清水の人々はこの都全体を守る神として、白桜の大木に手を合わせて暮らしてきたのだ。

 神社の参道に辿り着いた。水央は白桜神社の文字が刻まれた石碑に手をつき、神社へ続く長い石段を見上げた。白桜は小高い丘に立つため、石段もそれなりに高い。真っ直ぐ伸びる石段の左右に石灯籠と鳥居が点々と立っている。

 水央は石段を一気に駆け上がる。最上段にある鳥居を潜ったところで息を整えた。

 この神社は白桜を見上げられる場所を均して建てたから、都の鎮守を祀る地にしては敷地が狭い。石畳の道の先に手水舎と本殿、社務所があるだけだ。

 数人の参拝者が白桜を見上げて手を合わせていた。

 白桜の丘は一般人には禁足地だ。

 傍でその威容を拝むことはできない。丘と神社を隔てる塀に、枝垂しだれた白い花が滝のようにかかっているのが見える程度である。

 水央を見つけたのか、社務所の前にいた白桜神社の宮司がこちらへやってきた。

「水央様、ようおいでくださいました」

 白い狩衣姿の宮司がつと前へ進み出て長い袖を垂らし、水央に礼を取る。烏帽子の下の白髪がふと水央の目に留まった。

 彼は水央が幼い頃からここの宮司だった。

 宮司はよく神社に遊びに来た子供時代の水央の世話を焼いてくれた。水央にとっては隣家の優しいお爺さんなのだ。

「堅苦しいのはいいよ。それより、今朝参拝者の爺さんから聞いたんだけど、何かが起こっているって本当か?」

 宮司は普段の穏やかな顔を渋いものにした。

「こちらへ。参拝者に聞かせる話ではございませんので」

 宮司に導かれ、水央は社務所の中に入った。宮司は浅めの小さな籠を持ってきて水央に見せた。

 籠には白い花びらが籠いっぱいに入っていた。水央は花びらを手に取ってよく眺めた。柔らかな手触り、そして形。

「これ、まさか白桜の花びらか?」

「左様です。今朝、社の清掃中に発見いたしました」

 塞ノ神は休むことなくその神力で都を守る。

 つまり一年中枯れることなく咲き続けるのだ。

 白桜は、水央が幼い頃から一度も枯れたことがない。冬も雪を被りながら咲く。こんなに花を落としたことはなかった。激しい嵐や豪雨で少し花びらを落とすことはあっても、こんなに大量の花びらが落ちることはありえない。

 この量の花びらが落ちるのは、枯れ始めの前兆だ。

 白桜の神力が落ちていることにほかならない。

 もし白桜が枯れたら都の守りがなくなる。そのせいで災害や疫病が都に入り込んで、犠牲者が出るかもしれない。

 そんな都の風景を想像して、水央の背筋が冷たくなった。

「どうにかしないと!」

 水央は社務所を飛び出した。慌てて宮司が追ってくる。

「お待ちください、水央様! 原因もまだわからないのに、どうなさるおつもりです!」

 追ってきた高齢の宮司を走らせるのは気が引けて、水央は立ち止まり振り返った。

「何かはあるだろ? 何もしないよりはいいじゃないか!」

「――待て、水央!」

 低く太い声が水央の腹に重たく響いた。

 心臓が絞り上げられたようにぎゅっと収斂し、痛む。

 全身がひきつったように硬直する。おそるおそる、声の方へ目線だけを向ける。

 父の時雨(しぐれ)が立っていた。

 紺色がかった青い髪が無精気味にはねている。着崩した藍の着流しに白い羽織姿。まばらな顎髭。水央と同じ淡い青色の瞳がこちらを射竦めるように見ていた。

 白桜神社と白桜の丘を繋ぐ鉄製の扉が彼の背後にある。

 普段は鍵がかけられている。白桜の武家の棟梁のみが持つ鍵で神社まで来たのだろう。

 水央は父の姿が目に入らないように目線を逸らした。

「水央、お前ひとりでどうこうできる問題じゃねえ。帰って刀の鍛錬でもしてろ」

 水央は父から逃げるようにその場から走り出した。

「聞いているのか、水央!」

 父の声を振り切るように神社の石段を駆け降りる。

 一番下まで降りきってから、水央は荒い息を整えた。

 疲れているわけではないのに息が苦しい。こめかみと心臓がどくどくと激しく脈打つ。衣服越しに胸を手で押さえる。力が抜けたようにずるずると石段に座り込んだ。

 どうやら父は追ってこないらしい。

 父は、どうやら水央のことを疎ましく思っている。

 言葉ではっきり言われたことはない。けれど、父は決して水央とは視線を合わせない。水央の話を聞いてもくれない。

 親子らしい会話も、ここ数年したことがなかった。だから父と面と向かって話すのは苦手だ。

 

 見上げると、薄紅色の桜の花びらが降ってきた。神社の周りにある桜の杜もりから飛んできたのだろう。花びらが日差しに透け、白く照りかえって地面に落ちた。

 春はあたたかい風に吹かれながら、桜の散り際をずっと見ていたくなる。

 緩やかに過ぎる春の日に桜の花が散っていくのを見ると、その静けさに不安になるほどの美しさと寂しさを感じる。

 春はこんなにもあたたかくて明るいのに。

 冷たいままの自分の体だけ春の光にくるまれていないかのような、自分と世界に大きな隔たりがある。その寂莫の理由をいくら探しても、どれも明瞭な言葉にはならなかった。

 降ってくる桜の花びらをしばらく眺めた。

 静けさに満ちた春光に身を浸すと、胸の痛みがいくらか和らいだ。どこからか聞こえてくる鶯の声が、桜の花びらとともに降り注いだ。

「水央様」

 宮司が石段を降りてきた。幼い頃から水央のことを知っている宮司は、水央と父の不仲のこともよく知っている。

「大丈夫ですか?」

 宮司は水央と並んで石段に腰かけた。

「時雨様は、水央様のことを心配なさって――」

「違う!」

 怒鳴るような叫びが喉から飛び出た。

「親父が心配なんてするはずない! 俺のことなんて何も知らないくせに、話も聞かないくせに、何もできないって決めつける。白桜のことは、俺が何とかしてみせる!」

 

 水央は宮司の方へ振り向く。

「宮司、他に白桜のことで気づいたことってないか? 些細なことでもいいんだ」

 宮司は困ったように白い髭をさすった。しばらく唸っていたが、彼は思い出したように声を上げた。

「ああ、そういえば、少し前に不審者を見ました」

「不審者?」

 水央が訊き返すと、宮司はその日のことを話してくれた。

 三日前の晩。宮司が深夜に起きて厠へ立った帰り、外から物音が聞こえたという。

 気になって外に出てみると、神社と白桜を隔てる塀の上に大きな人影が見えた。人影は宮司に気づき、鬼灯の実のような赤い瞳で鋭く宮司を捉えた。

 宮司は殺意を感じ取ったという。

 宮司は白桜の丘への侵入者かもしれないと思い、恐れを吹き飛ばすように誰何の声を投げかけた。

 人影は塀の上をそのまま駆け抜け、白桜の丘には入らずにどこかへと去っていったという。

「そいつが白桜に何かしたんじゃないのか?」

 水央には、その人影が怪しいとしか思えなかった。神社と丘の間の塀に登っていたなど、怪しい以外の何者でもない。

 夜間の神社参拝者は珍しいというより、ほとんどいない。

 白桜神社へ来るためには水路を使う必要がある。夜に舟を出すのは危ないし、船頭も夜間はいない。

 もし自分で船を操って白桜神社へ来たのなら、出入りは誰にでも可能である。信仰篤い古清水の地で神社に悪さをする不届き者など普通はいないので、今まで侵入者への対策が取られたことはないだけだ。

 もしその人影が犯人なら、捕まえさえすれば白桜の異常を解決する糸口になるかもしれない。

 水央は高揚してそのことを宮司に伝えた。

「いえ、もう三日前の話ですし、白桜の丘にその者が侵入したのかまではわからないのです」

「親父にその話はしたのか?」

「いいえ、水央様が初めてです」

 白桜の異変と結びつけて考えていなかったのだろう。

「この三日間で、他に不審者は見たか?」

「ええ、私も気にかけてはいたのですが、不審者を見たのは三日前だけでした」

 父は不審者のことを知らないし、先ほどの態度を見ればこれ以上白桜の問題に央を関わらせることはしないだろう。

 それなら水央が、不審者を捕まえるために動くべきだ。

「宮司、今夜神社に張り込んでも構わないか?」

「水央様が、自らなさるのですか?」

「ああ。白桜の問題は、俺の問題だから」

 花守としてのお役目や義務は、まだ水央の中でそれほどの重たさを持たない。ただ、物心ついた頃から傍にあった大きな桜の御神木を守りたいという気持ちしかない。

 

 水央は難しくものを考えるのが苦手だ。こういうときは、直感で自分がしたいと思ったことをやるに限る。

 両腕を思いきり空へ向けて伸ばした。

 肺腑に淀んでいた息を大きく吐き出すと、体が軽くなる気がする。

 水央は宮司に、夜に神社に行くことを告げて一度屋敷に戻り、部屋で仮眠を取った。父や他の武士にばれないようこっそり屋敷を抜け出し神社へ向かうと、宮司に来訪を告げてから張り込みを始める。

 本殿の陰に隠れることにした。

 夜の白桜神社は、本殿前の石灯籠が小さな火を灯すばかりで、月光の前であまりに弱々しい光を放っている。月光を反射する桜の花びらが零れては、宵闇の淵に沈んでいった。

 水央は本殿の脇に潜み、件の不審者を待った。子供の頃から白桜の花守をしてきたから、じっと待つことには慣れている。

 水央も白桜の武家の一員。

 いつ誰が来てもいいように、腰に差す刀に触れる。

 平穏な古清水では刀を抜くような事態はまず起こらないから、水央も鍛錬以外で刀を抜いたことはない。どんな相手か、何が目的かもわからない。緊張からつい刀の柄を握る。使いたくはないが、心の余裕にはなる。

 微かに草履の音がした。息を呑んで耳を澄ませる。境内からの音ではない。石段からだ。草履が石段を擦る音が近づいてくる。

 水央は息を押し殺し、本殿の陰に潜んだまま目を凝らす。

 月を背景に、黒い人影が二つ石段の天辺に到達した。影が並んで歩を進めるごとに、草履が石畳に擦れる音がした。

 本殿から少し離れたところでその影たちは歩みを止めた。水央は気配を殺して相手を凝視する。

 人影のひとつが、もうひとりに尋ねる。

「如何ですか」

「ここではわからない。白桜の傍まで寄らないと」

 水央の心臓がどくんと跳ねる。

 白桜に近寄るなどと言うこの者たちこそ、宮司が見た怪しい人影ではないのか。

 水央は刀の柄を握ったまま、表へと躍り出た。

「待て、お前ら!」

 暗いせいで顔は判別できないが、人影が二人ともこちらを認識したのが気配でわかった。

「白桜の丘は禁足地だ。誰だろうと入れさせない!」

 二人は答えずにじっとこちらを窺っている。

 桜の花びらが、人影たちと水央の間を落ちていった。

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