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試し読み

 やわらかな春の日差しが町に降り注いでいます。
 その白い光を受けて、芽吹いた野草たちが競うように背伸びを始めました。春の日差しを蓄えながら、草若葉が青く輝いています。


 蝶が飛び回る町の花壇には、チューリップやアネモネ、ヒヤシンスやパンジーなどの花々が、あふれるように咲いていました。その花壇から森の方へ歩いてすぐの町のはずれに、小さな建物がひとつあります。
 

 そこが、魔女ヴィオラの喫茶店です。
 窓辺や前庭に季節の花を飾った、木組みの可愛らしい建物です。木造の扉の上部には喫茶店の看板とランプが飾られ、お店の前には黒板が立てられ、おすすめのメニューが紹介されています。お店に近づくと焼き菓子の匂いと、胸がすっとするようなハーブの香りが漂うのです。
 芽吹きの季節である春は、ハーブも芽吹く季節。

 

 カモミール、ダンデライオン、ローズマリーやディル、フェンネルなど、十本の指ではとても足りないほど、たくさんのハーブが葉を広げるのです。
 ヴィオラは早朝、お店の裏にある庭からハーブやイチゴを摘んで、庭のお世話をして、それからお菓子を焼いてポットを磨いてと、朝から大忙しです。春になると季節のメニューが増えるためか、お客さんも陽気に誘われるように増えるので、どれだけ働いても足りることはありません。


 微睡むような春の午後、お客さんは次々やってきて、カウンター席もテーブル席もみんな埋まっていきます。
 それぞれの話し声や笑い声が、お日さまの光のように明るく響いていました。

 

「マスター、ブレンドハーブティーのおかわりを頼むよ」
「ヴィオラちゃん、このパンジーのレアチーズケーキが食べたいわ」
 お客さんはお喋りの合間に、こうして追加で注文することもしばしば。
「はい、ただいま!」
 ヴィオラは声をかけながら洗い物の手を止め、ハーブティーとレアチーズケーキを出す準備を始めます。急いでテーブルにハーブティーのおかわりをお出しして、別のテーブルにパンジーの花を載せたレアチーズケーキを持っていきました。


 レアチーズケーキを始め、クッキーやカップケーキにはパンジーやヤグルマギクの砂糖漬けを飾って焼くのが、このお店の特別メニュー。ヴィオラもちょっと自慢にしているお菓子です。
 チーズケーキを注文した常連の女性は、フォークで一口大に切り分けたケーキを口に運びました。ゆっくり味わいながら、嬉しそうに頬を緩めます。
「あら、とても美味しいわ、これ」
 それを見ていた他のお客さんが手を上げました。


「ヴィオラ、こっちにもチーズケーキをひとつお願いするよ」
「はい、お待ちください」
 ヴィオラは急いでカウンターの中に戻り、もうひとつチーズケーキを出しました。するとちょうどお会計をしたいというお客さんがカウンターにやってきました。


「ああ、そうだわ」
 お客さんはお会計を終えてから、ラッピングされた袋を差し出しました。
「ねえヴィオラ、これ、この前のセージのルームスプレーのお礼よ。ハーブの育て方も前に教えてもらったし、それも兼ねてね。うちの羊の毛織物で色々作ったの」
「そんな、よろしいのでしょうか?」

 

 ヴィオラはお客さんに頼まれて精油や石鹸を作ったり、ハーブの育て方やお茶の淹れ方を教えたりすることがあります。ヴィオラは自分で助けられることならやろうと思っていただけで、お礼の品を贈られるとは思ってもみませんでした。
「いいのよ。他にも色々よくしてくれているし。見合うものかはわからないけれど、私の気持ちとして受け取ってちょうだい」
 お客さんもそう言うので、断るのも悪いと思ってヴィオラはその包みを受け取りました。自然と顔が綻ぶのを感じます。
「ありがとうございます。いただきますね」
 お客さんも満足そうに頷いてくれるので、素直に嬉しく思いました。

 

 お客さんの嬉しそうな様子を見ると、ヴィオラは地に足がついているような心地がします。魔女の喫茶店という異色なお店を、町の人たちが受け入れてくれることが実感できるからです。
「ヴィオラがこの町に来てから、ここで季節のものを味わうのが楽しくなったな」
「ハーブティーがすごく美味しいわ。家じゃこうは淹れられないもの。魔女の知識や魔法のおかげよ」
 お店は忙しいのですが、お客さんのこうした声は何よりもヴィオラの力になって、これからもがんばろうと思えるのです。


 最初お店を出したときは、魔女が店主という理由で避けられるか、逆に興味本位でやってくるお客さんばかりでした。

 それもそのはず、その昔、魔女は人々を苦しめる悪者として、人々から追われ、嫌われていました。飢饉や戦争で不安になっていた人々は、魔女がそれらの厄災をもたらす悪者だと思うことで不安を乗り越えたのです。町や村から追い払われるのはまだいい方で、告発され、異端者として火炙りにされる魔女も大勢いました。


 時代がいくつも下って、ようやく魔女への疑いが晴れたときには、魔女はそのほとんどが姿を消していたのです。生き残った魔女は人を信用できなくなって、人前に名乗り出ることをしなくなりました。そして今では、魔女はすっかり見かけなくなってしまったのです。
 

 ヴィオラはそんな中、人に混じって喫茶店を開いた魔女でした。
 最初は誰にも受け入れられなくても、ヴィオラはやってきたお客さんにはお菓子とお茶を出しました。怪我をした人には薬草を渡し、身体に不調を抱えている人にはその人のためにブレンドしたハーブティーを贈り、お茶の淹れ方からハーブの使い方まで人に教え、魔女の知識を人のために使っていきました。


 そうして今では、ヴィオラの出すメニューを楽しみに来てくれる人ばかりです。
 魔女は悪者でも何でもなく町の仲間だと、町の人たちは認めてくれています。笑顔と親しみをヴィオラに向け、魔女を頼り、そしてヴィオラを助けてくれるのです。リースを編むように、それらはひとつずつ因り合って、ヴィオラと町の人たちの絆を強く結んできたのです。

 

 そのたびに、ヴィオラにしか見えていない幽霊のお客さんは、「気をつけて。スミレの魔女さん。人間が君にしたことを忘れたいのかい」と心配の声をかけてきます。
 それはまるで強い日差しでできる濃い影のように、ヴィオラが人を信じるほど心の隅で釘を刺します。ヴィオラは、明るい日差しの部分だけを見つめようとして、その忠告には返事をしないようにしていました。

 

 扉に取りつけられたドアベルが、カランと音を立てて開きました。
 ヴィオラが「いらっしゃいませ」と声をかけて顔を向けます。

 

 入ってきたのは、若い女性のお客さんです。長旅をしてきたことが一目で知れるほど、くたびれた革のトランクとブーツを身につけていました。暗い色の服も色褪せ、裾がほつれかけています。
 鋏を入れていない長い銀の髪は雪のよう。真っ直ぐ人を見据える視線には、厳しさと気高さが備わって、大空を飛ぶ鷹のように凛々しいものでした。


「この喫茶店は、あなたの?」
 ヴィオラは一目でその女性の正体に思い至りました。
「はい。もしかして、あなたは……」
 ヴィオラが言い終わる前に、女性はほっとしたように笑みを作り頷きます。

 

「あなたと同じ、魔女よ」
「やっぱり! 他の魔女に会ったのは、本当に久しぶりだわ」
 初めて会ったはずなのに、まるで旧友に再会したような喜びと充足感がヴィオラの胸を満たしました。
「ヒイラギの魔女ヘルミーネよ。初めまして」
「私はスミレの魔女ヴィオラ。会えて本当に嬉しいわ」


 ヘルミーネは不可解そうに眉を寄せました。

「でも、どうしてこんなところで喫茶店なんて開いているの? 何か、無理やり奉仕をさせられているとか、脅されているとか?」
「いいえ、そんなことはないけれど。どうして?」
 ヴィオラには、彼女の言うことが最初理解できませんでした。訪れる人がみんな優しいことは、既にヴィオラの中で当たり前のことになっていたのです。
 ヘルミーネはじれったそうに言いました。


「忘れてしまったの? 私たちがされてきたことを。人にどんな目に遭わされてきたのか。それなのに、どうしてそんなふうに人と関われるの?」
 ヴィオラは魔女として人から受けた仕打ちを思い出し、心が冷たく震えました。

 

 けれどヴィオラは首を振ります。
「いいえ。魔女への迫害も、人を信じられない世の中も、もう終わりよ。私たちが永遠に人を許せないままでは、魔女の居場所はこの世界にはないわ」
 旧友のような眼差しをヴィオラに向けていたヘルミーネは、火がついたように怒りを視線に込めてヴィオラを睨みました。


「あなた、おかしいわ。気が触れているとしか思えない。ようやく見つけた仲間がこんなだとは思わなかった! 私はまだ忘れていない! 母を焼いた炎の色と、断末魔の悲鳴を! 今更魔女狩りは間違いでしたで済まされるものか! スミレの魔女、あなたにはわからないでしょうがね!」
 ヘルミーネは焼け焦げそうなほどの暗く熱い恨みをぶちまけて、颯爽とお店から去ってしまいました。再び鳴ったドアベルが、カランと空虚な音を響かせました。

 

 ヴィオラは立ち尽くして、彼女が去っていった扉を見つめました。
 追いかけようとも思いましたが、ヘルミーネにどんな言葉をかければいいのかわかりませんでした。ヴィオラは彼女の言うことに、それは間違っていると、真っ向から言い返すことができなかったのです。


 もう憎しみなど捨てるべきだと言いたくても、ヴィオラの記憶の底に眠る迫害の歴史が、言葉を塞ぎました。自分の信じる道を口で肯定できなかったことが悔しくて、とても悲しくなりました。

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