この森で息をする方法を教えてあげる。
私と死んだ心が森の中
すこしふしぎ
な日常の掌編集
言葉を受け取って傷ついた少女と、
言葉が伝わらなくて傷ついた青年。
静かな森で癒されていくファンタジー。
登場人物紹介
ふしぎな世界に迷い込む少女。
控えめで口下手、大人しく受動的な性格。
小さなことで悩む自分のことをつまらないと感じている。周囲に受けた仕打ちが言動に影響している。
シースイを保護するふしぎな世界の住人の青年。町から離れ、森の傍で暮らして香草採りをしている。
物静かでマイペースだが少々気弱。シースイをあちこちに連れ出し、ふしぎなものを見せてくれる。
キーワード
見知らぬふしぎな世界に迷い込んだ少女は、森の番人であるシアンという青年に助けられ、そのまま彼の元へ居候する。他に人がいない静かな森で、植物と向き合う生活は少女に何をもたらすのか。
日光浴をする本、ドラゴンが来る公園、海で育てたレモン、夏の葬送、天の川の水で作るジャム、渡り鳥が商品を卸す道の駅、占星術師の予言が書かれた暦。少女はそこで様々なふしぎを体験する。
この世には人の言葉に傷ついて心が死にかけた経験を持つ人がいる。言葉を受け過ぎて絶望した少女と、言葉が伝わらなくて絶望した青年は、お互いへの些細な言葉のやり取りに何を感じるのか。
試し読み
「海レモン、食べない?」
唐突にシアンがそんなことを言い出した。
それはなに、と私が訊くと、彼は面倒臭がらずに説明してくれる。
「海で獲れるレモンだよ。甘さと酸味の具合が絶妙でさ、海水で作るレモンは陸のレモンより甘いんだ。海レモンを絞ったソーダは海の名物なんだけど、あれだけは毎年食べたくなるくらい好きなんだよね」
普段テンションが低いシアンが少し明るい。
そんな珍しい様子のシアンに誘われ、私たちは列車に乗って海へ向かった。
夏の日差しが窓から差し込む。日の当たる場所は列車が進むにつれて変わっていき、光に当てられると陰にくすんだ列車内が明るい色に変わった。
海辺の駅を降りた瞬間、吹きつけた生温い夏の風に潮の匂いが混じっていることに気づいた。駅を出て少し歩くと、もう海だった。人の足跡が刻まれた砂浜に、心を洗うような清らかな波音が押し寄せてくる。
砂浜に座ってのんびりしている人、海に入って遊んでいる人、向こうのワゴンカーの前で何かを飲んでいる人などが海辺に散らばっていた。こんなにたくさんの人がいる空間に出るのが久しぶりな気がする。焼けつくような熱気と相まって少し頭がくらくらする。
海を見て固まった私を、フードをかぶったシアンが怪訝そうに覗き込む。
「海は初めてだった?」
「ううん。行ったことはあるはずだけど……」
海に連れて行ってもらった記憶はある。でも私は積極的に泳いだり遊んだりするタイプではなかった。海が楽しかった思い出なんてほとんどなくて、海が新鮮に感じるだけだ。
「泳ぎたかったら泳いでもいいよ」
「……いい。得意じゃ、ないから」
シアンはそう、と言って例の飲み物が売っている店へ案内してくれた。
彼はこういうとき、せっかく来たんだから泳げばいいのにとか、子供はかくあるべし、のような押しつけはしてこない。ある程度距離を取ってくれているのが私にはありがたい。
砂浜には下りずに海沿いの道路を少し歩くと、白いワゴンカーが目に入ってきた。傍に看板が立っている。青い文字で「海レモンソーダ」と書かれている。
シアンは真っ先にワゴンカーに向かっていく。私はスタンドに集まる人の明るい声に気圧されて、ついていくのが憚られた。
本当に人が多い。他の人の弾けるような笑い声や楽しそうな声が、身体の中でわんわんと残響する。顎から伝った汗が砂浜に落ちた。
夏の太陽が頭上を焼くように熱くて、声が響くだけで頭がぐるぐる回る。