

魔術師と祝祭


もしどんな願いでも叶うとしたら、
その異形に願いますか?


あらすじ
どんな荒唐無稽な願いでも必ず叶える異形〈魔術師〉の噂がある。
雨がよく降る町の謂れを語る男、仲のいい双子の姉妹、
魚になりたいと願った少年、
夜に火を灯し、悪霊を追い払う習慣がある町、かつて海の向こうに楽園を見た人々。
願いをかけた者たちの末路を描く、
ダーク風味の幻想短編集です。


物語を彩るキーワード
魔術師とは?

それは時代も国も時間も超越して、本気の願いを持つ者の前に現れる異形だとされる。どんな荒唐無稽な願いでも、何でも叶えるという。
願いを持つ者たちの末路

人より何かが得意になりたい、ある人とずっと一緒にいたい。人は際限なく願うもの。だが願いを叶えた先に待つものが幸福とは限らない。
ダークな短編集

ダークメルヘンのような、すこしふしぎで雰囲気の薄暗い本作。ちょっとだけゾクッとする後味の悪い作品をお求めの方に刺さります。
試し読み
酒を出さない宿だから食堂は静かだ。
ここでも雨の音が屋内に染み込むようにして微かに聞こえてくる。二人掛けの座席から食堂を見回すと、他にも客がいた。ひとりで新聞を読んでいるスーツの紳士。熟年夫婦らしき二人は向かい合って静かにお茶を楽しんでいる。夕食前の中途半端な時間だからか、そんなに客はいない。
もうひとり、窓際の席で雨の降る町を見ている男がいた。
長い金の髪を流し、帽子を被った若い男だ。服装は喪服みたいに真っ黒で統一されていた。つまらなさそうに冷めた目で一体何を見ているのか。
待っているとコーヒーが運ばれてきた。
ミルクをたっぷり入れてもらった。苦いコーヒーより、まろやかな味のもので心を落ち着けたかった。湯気を上げる白いカップを手に口元に運ぶと、香ばしく、ほろ苦ささえ感じさせるコーヒーの香りが漂った。ひと口飲むと、雨で冷えた身体にぽっと火が灯るようだった。冷めないうちにコーヒーを少しずつ飲んだ。
「失礼」
顔を上げると、私の席の前に窓際で外を見ていた金髪の男が立っていた。
やはりつまらなさそうな冷えた表情でこちらを見下ろしている。
「どうにも暗い天気で参っていまして、少しお話に付き合っていただけませんか」
「はあ、一向に構いませんが」
急いで部屋に帰らないといけないわけでもないし構わない。もし何か買わせようとしてきたら早々に切り上げればいいだろう。男は硬質な表情を綻ばせて礼を言い、失礼しますと言って私の向かいに座った。
顔が整っているせいか独特の雰囲気のせいか、真正面で向き合うと自然と背筋が伸びた。物腰は柔らかいのにどこか表情が硬い。薄暗いせいか、男の肌が青白く見えた。血の気が通っていないような病的な白さだった。
「貴方は、この町は初めてですか」
「ええ、まあ」
「ここ数日雨続きで残念でしたね。この町は景色が有名です。水路にかかるアーチ橋や行き交うゴンドラ、海の傍の白い町の景色は、それは見事ですから」
「そうでしたか。明日には発たなければならないので、それは残念です」
そういえば雨のせいでまったく町の景色を楽しむどころではなかった。海なんて雨と霧に霞んでしまっている。見えるのは灰色の町だけだ。男は少し辛そうな咳をした。
「失礼しました。この町は港としても発展している町ですが、たまにこうして大雨が数日続くことがあります。旅行客にとってはもったいない話ですがね」
男は「昔は全然雨が降らない村だったそうですよ」と言う。
「村というと、この町が発展する前のお話ですか?」
「ええ。貴方は〈魔術師〉をご存知ですか? 人が心の底から願いを叶えたいと思ったときに現れ、願いを叶えるといわれるものです」
「確か、魔性だか怪物だか、とにかく得体が知れない者だそうですね」
会社の仕事の都合で出張することがよくあるから、自然と各町に伝わる奇怪な話を耳にする。その中に〈魔術師〉の話題が紛れていることがあった。
〈魔術師〉は突然現れ、どんな荒唐無稽な願いでも必ず叶えるといわれている。
しかし、願いが叶ったはいいものの、叶えたことで逆に悲劇に見舞われるというケースが世間を騒がせることがあるのだ。
例えば、原型も留めずに溺死した息子を蘇らせてくださいと願った老婆の元に、皮膚や肉が削られ、ぐずぐずにとろけた息子の成れの果てが訪れて騒ぎになったという。
人の本気の願いの果てに幸福が訪れるのか、自分の業を映す末路が訪れるかは願いにもよるし、本人の望みとはまったく違った形で願いが叶えられるかもしれないのだ。
それでも人は、強く何かを願ってしまうという。