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夕べには海へ

 わたしは、久しぶりに故郷へ帰ってみようと思った。
 昔、小舟で乗り出した大海を逆に進んでいく。古都メルトキアを出て、漁師の人の船に乗せてもらう。小さな村だけがあった小さな島へ連れていってもらうよう頼むが、漁師はとても不思議そうな顔をした。

「お客さん、あの島には今、何もないよ。あのときの津波で、みんな流されちまったんだ」
 それでもいいので頼むと言うと、変なお客さんだなあと言いながらも島へ連れていってくれた。

 船を降り、漁師の船が遠ざかっていくにつれて、薄暮が辺りを覆い始めた。
 わたしは海を離れて村の方へ行く。村があった場所には平地が広がるばかりで何もなかった。僅かに転がる木片が、辛うじてそこに家があった痕跡を残していた。家も人も、みんな流されてしまったのだ。

 ほど近い海から、波の音が届く。人の気配はない。とても静かだった。
 わたしは村のあった場所を離れて、もう一度海へ――砂浜へ出た。
 日が沈んでいく。空も、青い海も、濃い茜色に染まっていく。故郷の懐かしい潮風がわたしを包み込む。

 昔はいつも、この海の向こうを見つめていた。
 朝焼けに染まる、エメラルドが溶け込んだような淡い色の海を。
 海の向こうに広がっている世界を夢想し、未だ見ぬ景色と、知らない風の色を海の向こうに求めていた。雲がたなびく高原の町も、風渡る草の原も、星が輝く古代の社も、黄金の砂丘も、この目に収めたかった。

 優しい家族も、親しい友人も、住み慣れた故郷も、すべて捨てて、わたしは弾かれたように小船を出して、海に飛び出した。誰にも内緒で、朝焼けの海に漕ぎ出した。
 憧れだけを抱いて、故郷も、そこにある大切なものも顧みることなく。
 故郷の惨事については旅先で聞き知った。ジルエット諸島が大災害に遭ったことも、故郷の村がなくなってしまったことも。

 その後わたしはあの王に呼び戻され、ある男と会い、世界の秘密に触れ、再び旅をすることになった。王の密命を抱き、世界中を飛び回って調べ物をした。

 彼から呼ばれなければ、わたしは生き残った同胞を顧みることもなく、復興に尽力することもなく、帰ることもせず、背筋に這い寄るような罪悪感を抱いて根無し草を貫いていただろう。

 故郷は壊れ、人も住まわぬ島に成り果てた。わたしは帰ってきたが、帰ったことを告げる者はもういない。後ろめたさを持ったまま旅をしていたら、その罪悪感と虚しさの中でわたしは立ちすくんでいただろう。旅の中で昔のわたしを捨てて、気ままな旅暮らしをするだけの、からっぽのままのわたしになっていただろう。

 静寂の合間に、波の音が響く。
 故郷に何もないことは悲しいのか、正直わからない。なくなってしまったものはもう仕方がないのだと思っている。ただ、この静寂と波の音が懐かしさとなって胸を満たす。

 これからは何をしよう。王はまた追って命を下すと言った。旅には出られない。きっとまた働かされる。この地に生きる同胞のひとりとして、わたしはジルエットの大地とともに生きることになるのだろう。

 今から海を渡るのは難しい。今日はこの島で一夜を明かすしかない。
 わたしは海辺に座り込んで暮れゆく海を見つめた。海が赤く染まっている。
 あのときの朝焼けと同じくらい赤い夕陽に、目が焼けそうになる。

 波の音が、いつまでも耳の奥で鳴り続けていた。

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