


TRIAL READING

海岸通りは今日も晴れている。
ルイは海を背にして小新聞を売っていた。
大衆の興味を引くように書かれた見出しを声に出せば、通りがかった町の人が新聞を買っていく。大人たちの中には新聞を受け取りながら「いつもご苦労様」と声をかけてくれたりもする。
子供を憐れみ、対等な人間として扱ってくれる大人の存在がルイは初めてだ。
母親に売られた元奴隷のルイには頼れる者もなく、これまでずっとスリで生計を立てていた。だから貧困のどん底にいる孤児や浮浪児を見て見ぬ振りする大人も、犯罪者をゴミのように扱い暴力を振るう警察も、ルイは大嫌いだった。
けれどこの南方の港町は違うらしい。気温も暖かく、大人たちが纏う空気もどこかおっとりしている。
大人だから憎い。警察官だから嫌い。
荒れた生活の中で培われた激情は少し収まり、今は大人に笑みさえ浮かべて日銭稼ぎができる。
以前の暮らしでは考えられなかったことである。
それは前に出会った優しい特別捜査官のおかげかもしれない。
新聞は大体午前中で売り切れる。
ルイは売上金を小さな新聞社に持って行って、そこから僅かばかりの給金を貰った。午後になると道を行く大人に声をかけ、海岸通りの道路を箒で掃除する仕事を貰う。毎日のようにゴミや汚水で汚れるので、この仕事も途切れない。
こうして一日中働いても稼ぎはちょっとで、一日のパンにありつける程度だ。まともに働くのが馬鹿馬鹿しくなる。スリだった頃の方が、身の危険を差し引いても安定して食べていられる。
石畳を箒で掃いていると、女の子が小さなカゴに満載した花を売っているのを見かけた。彼女の手首は細い。あんな花を売って日銭稼ぎをしても、まともなものは食べられないだろう。
町の人は子供を憐れんでくれるが、子供が幼いうちから家計を助けるために労働すること自体は普通だと思っている。そうでなければ家族全員で食べていくことができない家もあるからだ。
この町にも工場がたくさんあり、子供は長時間の労働を強いられている。
船で水夫の厳しい仕事をする子もいる。それ以外では道端で物を売るか、靴磨きでもして日銭を稼ぐしかない。この町でも貧しい者は辛い仕事をして、僅かばかりの給金で暮らしている。
警察に追いかけられる危険も、大人に捕まって売られる危険もない。今の生活は平穏だが、これが自分の望んだ生活なのかはいまいちわからなかった。
海の上で、カモメという白い鳥が鳴いている。
フロッセの町にいた頃は動物を見ることがほとんどなかったけれど、この町にはカモメがたくさんいる。
あの鳥はいつも広い空を飛んでいる。どこまでも飛んでいけるなら鳥は自由なのかと、この町に来たとき仲間のミシェルに訊いたことがある。
すると彼は言った。
――鳥だってずっと飛んでいられるわけじゃないし、餌が獲れないと死んでしまう。猫やヘビなどの天敵に襲われることもある。
――自由かどうかは人にはわからないな。
――誰にでも、その人なりの生きづらさがある。
どこに行っても、そこにはそこの不自由がある。
茜色の光が広い空と海とを明るく染め上げていた。
夕陽を照り返す波の表面がきらめいている。
きれいだけど、その光は決してルイには届かない場所で輝きを放っている。
ここは南方の港町リートベルフ。
元は寂れた漁村だったらしい。蒸気機関が発達して多くの製品が作られるようになると、輸出入の玄関口として多くの船が出入りするようになった。
さらに鉄道が敷かれて王都と結ばれてからは大都市に発展。今では工場も人口も増え続け、船での輸送を担う海運の中心地になったという。
港の周辺や中央の商店街通りは人も多くて活気もあるが、穏やかな空気感が同居する町である。
白を基調にした壁にカラフルな屋根の建物群が青い海の傍に密集していて、その頭上をカモメたちが飛んでいる。明るくてきれいな町だ。
南方だから凍えることもない。初夏の温暖な日差しを頭から浴びるあたたかさが心地よい。
フロッセでは孤児が吹き溜まり、入り組んだ路地裏に犯罪者が潜み、警察が手柄欲しさに徘徊し、大人はそれらを無視して自分たちの生活のために働いていた。あの町は寒くて、町全体が殺伐としたものを抱えていたが、リートベルフは真逆だ。
それでもひと握りの日銭を稼ぐために多くの者が造船所や波止場で仕事をしている。工場も港の近くに集まっており、労働者階級の貧困や児童労働などはこの町にも根強く存在していた。
掃除を終え、依頼人から僅かな小銭を貰ってからルイはアジトに帰ることにした。アジトは海岸通りから何本も逸れた街中の、路地の先にある。
この辺りのアパートは背が高く、建物同士が密集している。リートベルフの発展と同時に、できるだけ多くの人が住めるようにと作られたのだそうだ。
町に雪崩れ込んできた労働者に安く貸し出している地域で、貧しい労働者が多く住む。それでもスラムと呼ぶほどではない。極貧の地獄を知っているルイからすると住みやすい地区である。
屋根も壁も床も壊れていないし、部屋は二つもある。仲間たち五人で住むには充分だった。ルイが帰ると仲間の二人は既に戻っていた。
「ただいま」
「おかえり、ルイ」
古い竈に火を入れてお湯を沸かしていたサフィアが振り返った。サフィアは仲間で唯一の女の子だ。
サフィアは銀色の髪をポニーテール風に結い上げた青い瞳の少女だ。白い半袖のシャツにショートパンツ姿という、男の子のような恰好をしている。
ルイの仲間――ルペシュールのメンバーは五人。
全員十六歳以下で、犯罪者として手配されている。
元々はフロッセの町で活動していた。子供や貧しい人、労働者などから利益や金や命を搾り取る未逮捕の犯罪者を、私刑にして回っていた。
その後ルペシュールは警察に追われ、新天地を求めて町を離れた。そしてリートベルフで真っ当で平穏な生活を送り始めた。悪人裁きの活動もせず、犯罪からも遠ざかっている。
窓を板で打ちつけたこの家屋は薄暗い。
古いテーブルの上で、小さな炎が浮かんで居間兼食事場所を照らしていた。古びた椅子に座り、本を読む少年の元へルイは向かっていった。彼は最近ずっと本を読んでいる。最新の医学書や手持ちの古い本で勉強しているようだ。
「ミシェル、戻ったよ」
声をかけるとミシェルは本から顔を上げた。
くすんだ金髪をひとつに括り、眼鏡をかけた神経質そうな少年だ。にこにこ笑うこともなく、常に眉を寄せて鋭い鳶色の瞳を人に向ける。
「では、昨日の続きをするか」
「やった」
ルイはテーブルに置きっぱなしの帳面を手元に引き寄せ、ミシェルの隣の椅子に座った。夕方から眠るまでの時間、ルイはミシェルから簡単な読み書きや計算を教わっていた。
ルイは簡単な文字しか読めないし、筆記はまったくできない。計算もできないので、ちゃんと覚えた方がいいとミシェルに勧められたのだ。読み書きと計算だけでもできれば、今後どんな生き方しても必ずルイの力になると言われた。
ルイはできることが少ない。もっとみんなの力になれるならと、ここ最近は勉強に打ち込んでいる。
読み書きも計算も覚えることが多い。本を読むだけでも知らない言葉がたくさんあった。文字を間違えずに書くだけでも大変だったが、必死に覚えた。いつか離れて暮らす友人へ手紙を書いてみたいのだ。
やがて残りの仲間二人が帰ってきた。
この間、時間に余裕があるサフィアが用意した夕飯を五人で食べる。それが大体の日課だ。
「ただいま。紅茶を貰ったから淹れようか」
レブラスが包みを持って帰ってきた。彼はパブで給仕の日銭稼ぎをしている。集まる客の話を聞いて情報収集も行っていた。
目元涼しい金髪碧眼の少年で、シャツに落ち着いたジャケットを重ねた格好をしている。大切にしている騎士の制服はアジトで保管しているのだ。
彼はこの国の至宝である聖剣に唯一選ばれた〈聖騎士〉だ。最高位の騎士だが、周囲から嫉妬や反感を買い、国家簒奪の罪を着せられ王都を追われた。聖剣はいつも布で包んで肌身離さず持っている。
沸かしたお湯でレブラスが紅茶を淹れていると、最後の仲間であるアシルも帰ってきた。
「ただいま。飯にしようぜ」
濃い灰色のはねた髪に赤い瞳の少年で、フードのついた黒いジャケットを羽織っている。
彼は元々フロッセの町で〈アサシン〉を生業にしていた。情報収集、潜入、暗殺など何でもこなす腕利きだが、現在は駅で清掃や雑用の日銭稼ぎをしている。今まで真っ当な仕事をしていなかったせいか、アシルだけは毎日くたくたになっていた。
サフィアとミシェルは、国が犯罪者として定める魔法使いで、ルイはスリ。
五人とも事情はバラバラだが犯罪者として追われているため、身を寄せ合って潜伏生活を送っている。
「今日はパンを買ってきたよ」
サフィアはパン五つ、レブラスは縁が欠けたカップに入った紅茶をテーブルに用意した。
それぞれパンを手に取る。ルイは少し固いパンをちぎって口に入れた。紅茶は少し苦めだけれど、泥水よりずっと美味しい。
量が少なくても一日に二食は食べられるし、警察に追われることもない。犯罪者だから人目は気にしないといけないけれど、フロッセにいた頃よりも穏やかで平和な生活を送っている。
レブラスが紅茶を飲んで顔を顰めた。
「これ、混ぜ物が入っているな」
「純正の茶葉はまだ高いだろう。最近は紅茶の関税も上がっているし、飲めるだけマシだな」
ミシェルは真顔で飲んでいる。
「混ぜ物って?」
ルイは気になったので尋ねてみた。こういう場合、大抵は博識なミシェルが答えてくれる。
「紅茶の茶葉はまだ高いから、雑草なんかを混ぜて嵩増しして売っているんだ。一度使った茶葉を乾燥させてまた売ったりもする」
「それっていいの?」
「その分安い。これは本物の茶葉が入っているだけマシな部類だ。雑草を紅茶と偽って売ったりするからな」
ルイは思わず手元のカップの中身を見たが、別に飲めないものではないので気にせず飲んだ。
五人一緒に夕食を摂りながら、その日あったことを話し合うのが日課だ。
ルイは今朝の新聞の内容を思い出す。
「今日さ、配った新聞の見出しを見たら気になることが書いてあった。関税がまた上がるってやつと、貿易会社の社長が暗殺されたやつ。あと、工場の火災」
最初の二つはともかく、火災の記事を読んだルイは信じられない思いでその記事を読み返した。
「それならオレも駅で聞いたぜ。街中の工場で火災があって、従業員が焼け死んだってやつだろ?」
アシルの言葉に、ルイは頷く。
「警察の見解では放火らしくて。その犯人が、〈炎の魔術師〉の可能性があるって……」
ルイはミシェルの顔色を窺った。全員が息を呑んだ。ミシェルは眉ひとつ動かさない。
「ルイ、記事の内容、憶えているかぎりでいいから教えてくれ」
「う、うん……」
昨日、売上が伸びた会社の綿製品の工場が放火され、工場にいた関係者や従業員が重軽傷を負ったという。都市部での放火は久方ぶりで、警察は〈炎の魔術師〉の仕業の可能性を考慮して捜査するという。
アシルが冗談交じりでミシェルに訊く。
「やってないよな?」
「当たり前だ。わざわざ無駄な殺しはしない」
〈炎の魔術師〉とはミシェルの異名だ。
彼は魔法使いの血が流れていないにも関わらず、魔法を独学で習得した天才で、その力で王立学院を火の海にした大量殺人鬼として国内では有名だった。
確かにミシェルは炎の魔術を使えるし、やろうと思えば放火することだってできるだろう。けれどミシェルはこの町に来てから薬を作り、ルイに勉強を教えることしかしていない。放火というだけでミシェルの仕業だと勝手に報道されている。ルイはそれが許せない。
サフィアが怪訝な顔でレブラスを見る。
「レブラス、どうかした?」
「ああ、聞いてるよ。俺もその話題はパブで小耳に挟んだ」
レブラスは取り繕うように言った。
レブラスは正義感が強いので、痛ましい事件の話を聞いたときはいつも被害者への同情や憐れみを口にするのに、話に食いついてこない。
様子が変な気がする。何が変なのか具体的なことはわからないが、周りのメンバーもレブラスには違和感を覚えているようだ。
ミシェルはまるで他人事のように冷静だった。
「警察が町の巡回や捜査を強化するだろう。全員警察に目をつけられないように気をつけろ。僕は明日、隣町のビアズリーまで行って薬を売ってくる」
ミシェルは無名の闇医者として、わざわざ隣町まで行って作った薬を売って生計を立てている。足がつかないようにという配慮らしい。
サフィアがついでとばかりに口を開く。
「ついこの間、嵐の日があったでしょ? その日に沖に出ていた船が沈んだらしいの」
サフィアは縫物を売るほか、海の中に入って、海に落ちている金目の物を浚って換金していた。魔法使いの血を継ぐサフィアは常人より五感が鋭く、海でも長く息が続く。泳ぎも得意らしい。
「明日探しに行ってみるつもり」
「気をつけろ。町や裏社会の連中の目に留まらないようにするんだぞ」
ミシェルの言葉を最後に、他に話題は出なかった。
平穏な暮らしをしていても、ルイたちは人目を憚りながら生きていかないといけない。現状に不満はない。それなのに自由さとはほど遠い生活を送っている。
話を終えてミシェルが魔法で作った火を消した後、ルイたちは奥の部屋で早々に床についた。藁を敷いてボロの毛布を被るだけの寝床だが温かい。
暗がりの中、ルイは頭の中で暗い空を飛ぶ白いカモメの群れの姿を思い浮かべる。
暗い空をどう飛べば、墜落せずに飛び続けられるだろう。行きたい方向に向かって飛べるだろう。
自由に飛んでいるような鳥にも不自由さはある。
ルイたちはどう生きれば自由でいられるのか。
漠然とした不安のことを考えながら、ルイは寝床の中で目を閉じた。