​水底風鈴市

 宵町へ向かう電車は海の底へは行かない。

 けれど、途中で海の中を通る。窓の外が一面青の世界に染まる。

 青い魚の群れが通り過ぎるのを、僕は兄さんと一緒に見た。電車の中に、海の膜を通した青白い日差しが降り注いで揺れていた。

 地元の駅から電車に乗り込んで十五分。もうすぐ宵町に着く。

 兄さんは、金色の長い毛並みのゴールデンレトリーバーで、僕の大事な家族。宵町に行こうとする僕についてきてくれた。母さんは子供ひとりで電車に乗って宵町に行くことにいい顔をしなかったのだけれど、兄さんがついてきてくれるというと承知してくれた。

 海の中を通っていた電車が浮上していく。線路に沿って海面に滑り出た。

 電車はそのまま海面を走っていく。僕は電車の窓から水底を見下ろした。いくつもの水の層が重なって海底は一層青く、珊瑚が岸壁より覗く白い砂の原が広がっている。

 今見えている海底よりも、もっと深くまで海は広がっているらしい。本当の海底はもっと深いところにあるらしい。そんなところまでは、きっと行けないのだ。もっと簡単に海底に行く方法があればいいのにと思う。

 父さんは海底に行って、帰ってこなかった。

 きっと帰れなくなるくらい、綺麗なところなのだろう。

 だから僕も父さんのところへ行ってみたいのだけれど、海底の行き方がわからない。

 ぼんやり景色を眺めているうちに電車が停まった。

 窓から見える看板には「宵町駅」と大きく書かれている。兄さんが僕のシャツの裾をくわえて軽く引っ張った。僕は電車の扉が閉まらないうちに駅へと降り立った。

 宵町の空は今日も青く澄んでいる。白い雲と青い空の合間に、鮮やかな朱色の金魚が泳いでいる。この光景を見ると宵町に来たと実感する。

 僕は早速兄さんと、宵町神社へ向かった。神社は駅から歩いてすぐだ。

 真夏の熱気でくらくらしそうな今の時期、宵町神社には風鈴市が立つ。神社の境内に無数の風鈴を吊り下げ、たくさんの風鈴が縁日で売られるらしい。神社へ向かう途中、僕はひどく蒸した熱気にすぐに身体が火照ってしまった。蒸し暑い真夏の空気に炙られるようだ。あまりの暑さに頭が少しぼうっとする。

 夕闇の生温い風が少しでも吹いていることが救いだ。日陰になるものがない道路には容赦なく真夏の日差しが降り注いでくる。汗が全身に浮かぶ。兄さんも舌を垂らしながら無言で歩いていた。

 神社への道には、他にもたくさんひとが歩いていた。青い浴衣を着たカワセミの少女や、付喪神の集団が神社へ向かっていく。みんな風鈴市へ行くのだろう。

 神社の周りには鎮守の杜が広がり、清浄な空気に包まれている。境内は狭いが縁日の屋台は賑やかで、訪れた人々の笑い声や話し声で溢れかえっていた。

 僕は人にぶつからないようにして進む。縁日のぼんやりとした提灯の明かりの連なり、屋台の看板、りんご飴の匂い。お面屋の店主が子供にお面を手渡している。射的屋では子供たちが並んで景品を取る競争をしていた。その隣には金魚すくいの屋台。大きめのプールに、朱色の金魚が尾ひれをひらめかせてひしめいている。

 金魚。

 ずっと水の中にいて、金魚はどんな気持ちなのだろう。金魚たちにとって、あのプールは狭いのだろうか。

 電車で見た海の中を思い出す。一面の、どこまでも限りない青い世界。あの世界をどこまでも行けたら、どこまでも潜っていけたら。より深い青に染められて、魚のように泳いで、水面から差し込む光を見上げられたら。

 この町では空が海のようになっていて、金魚が空を泳いでいるのに。

 どうして僕は泳いで海底へ行けないのだろう。

 魚になれたら、きっと海の底まで泳いで行けるのに。

 風鈴市まで辿り着く。本殿前の参道を囲うように露店が出され、売り物の大量の風鈴が店の軒先や木で組まれた格子に吊るされていた。

 色もデザインも違う無数の風鈴が、絶えず音色を重ね合わせ、音を立てながら短冊を生温い風に揺らめかせている。先程の付喪神たちが、吊るされた風鈴を指差しながら、仲間たちと何か言い交わしていた。

「兄さん、どんな風鈴がいいかな」

 兄さんは僕を見上げるけれど、僕を並んで歩くだけで何も言わない。

 透明、朝顔や向日葵、撫子、桔梗、金魚、花火、ほたる、流水に水草、赤や青、緑色のもの。

 無数の風鈴が揺れる。甲高い音がいくつも交わり、響く。

 浴衣姿の人々が露店を囲み、風鈴を見ていた。僕はその後ろから店先に吊るされた風鈴を覗き込む。

「さあ、風鈴はいかがかな。今なら特別な風鈴もあるよ。海の水を閉じ込めた風鈴、花火の光を閉じ込んだ風鈴、ほたるのように夜に光る風鈴、他にも色々あるよ」

 風鈴屋の店主が声を張り上げ、客に呼びかける。僕は、店主が掲げたひとつの風鈴へ目を向ける。

 丸い、海の水が満ちたような薄青い硝子の風鈴。柄のない青い風鈴が白い短冊を垂らして揺れている。

 店主がじっと風鈴を見上げる僕に気づいたのか、目が合った。目元がほんのり赤い、狐目の店主だった。

「オヤ、坊ちゃん。何か欲しいのがあったかな? ここの風鈴はみんな特別だよ」

 僕はおそるおそる、青い風鈴を指差す。

「その、海の水を閉じたやつ」

 僕の声に応えるように、青い風鈴がちりんと音を立てた。

「確かにこれは坊ちゃんのための風鈴のようだ。今取ってあげよう」

 店主は吊るしているその風鈴を取って、僕に手渡してくれた。風鈴を吊るすように持つと、風鈴が鳴る。傍で見れば見るほど、電車で見た海の青そのものだ。透明な硝子の奥で、青い水が揺らめいている。

 白い短冊には、短く墨で何かが書かれていた。

 

 ――海の底は綺麗だよ。

 ――けれど二度と帰れなくなってしまうから、海の底に来るのは最後の楽しみに取っておいで。

 

 それは短い手紙だった。

「坊ちゃん宛てに海底から届いたものだね。海底は生きている人は行けない場所だから、短冊に言葉を書いて送ってくれたんだろう」

 店主はそう言い添えた。

 直感でわかった。これは、海底にいる父さんからの手紙だ。

 海ばかり見ている僕に、父さんが海の底から送ってくれたものなのだ。海底の海を閉じ込んで一層青い風鈴は、父さんの見ている青い世界の欠片だ。

「そっか。僕は、もう海なんて見なくていいんだ」

 神社の境内の喧騒が一瞬遠のき、りん、と風鈴の音が小さく、けれど余韻を残しながら響いて消えた。

 祭りの喧騒が一気に戻って耳に押し寄せてきた。

 兄さんが鳴いて、僕のおなかに鼻をくっつけてくる。しっかりした兄さんにせっつかれて、僕は風鈴のお代を店主に渡した。店主は風鈴を壊さないように持ち運ぶ箱もくれた。そこに風鈴を横たえ、僕は兄さんと一緒に空に金魚が泳ぐ宵町を後にした。

 帰りの電車で、もう海は見なかった。

 家に帰って母さんに風鈴を見せると、母さんは少しだけ泣いて風鈴を居間に飾ってくれた。

 生温い夏の風に煽られて、風鈴が何度も音を立てるとき、海の底の青さを見る。

 帰れなくなるほど美しい場所の欠片を見つめるとき、僕は潮の匂いとともに父さんの面影を思い出す。

あとがき

 夏と風鈴をテーマにちょっとふしぎな短編を書きました。

 書き出しを気に入ってしまったので、当初予定していた話とは全然違うものになりました。海底の書き出しになったので、海底に拘る少年の話になりました。当初は死んだペットの金魚の女の子にお祭りで出会って別れる話だったけれど、まあこれはこれでいいかなと思っています。

 短冊に誰かからの手紙が書いてあったら素敵だなあと思って、最後のエピソードを​付け加えました。

 ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

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