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冬のばら

 秋の日差しがとてもあたたかな午後でした。
 庭に植えられた秋ばらが、ちょうど満開を迎えています。

 ここはおばあさんが毎日手入れをしている小さなばら園です。赤いショールを肩にかけたおばあさんが、じょうろを手にばらの根元に水をやっています。
 水がたっぷり入ったじょうろは少し重く、腰を曲げながら少しずつ水をやりました。若い頃は平気だった庭の手入れも、身体のあちこちを痛めるようになっていました。それでも、ばらのお手入れを欠かすことはありません。
 ばらは、とてもお世話に手間がかかる花です。
 冬の間も水をやり、土にも栄養を与えてあげないといけません。病気や害虫も多く、こまめに薬剤を与え、剪定して咲きがらを取るのも大切なことでした。
 そんな苦労を一年中続けてばらが綺麗に咲くと、おばあさんは報われたようなしあわせな気持ちになります。
 ばらのお世話は老後の楽しみのひとつでした。子供も独立し、老いてなおしっかりした夫が仕事をしている間のささやかな趣味です。
 おばあさんはばらの花が好きでした。
 けれど、同時に忌まわしいという気持ちも抱くのです。
 濃い緑色の葉と、柔らかな花びらがいくつも重なった、赤いばらの花たち。そんな花に囲まれて、園の端に、蕾のままのばらがあります。
 ひとつだけ白いこのばらは、口を固く閉ざしたままです。
 この白いばらは、おばあさんが最初に庭に植えたもの。白ばらだけでは寂しいと、他のばらも植えるようになったのが、このばら園のはじまりです。
 この白い花だけは、ほとんど花を開くことはありません。
 この花が開いたのは、ただの一度だけ。
 おばあさんは、毎日庭に出るたびに、祈るような気持ちで白いばらの蕾と向き合います。この白いばらの花は、咲いてはいけないものなのです。
 花が咲いていないことを確認して、おばあさんは安心しました。水やりをして、やがて家の中へ入っていきました。



 あの白いばらが花開いたときのことを、おばあさんはよく覚えています。
 窓から見える庭が雪化粧していた、真冬のことでした。
 おばあさんがまだ若く、二人の子供がいるおかあさんだった頃で、もう何十年も前のことです。
 薄暗い冬の空を窓越しに見上げていたおかあさんは、そろそろお夕飯の支度をしようと台所に立っていました。ストーブのついたあたたかい居間では、下の子供と飼い猫が遊んでいるようです。
 やがて、小学校に通っている上の子供が帰ってきました。玄関の扉が開く音を聞きつけて、おかあさんは玄関に向かいます。
「おかえりなさい」
 上の子はやんちゃな男の子で、最近は外で雪遊びをするのが楽しいらしく、毎日元気そのものでした。
 寒さで頬を赤くした男の子は、おかあさんの迎えにぱっと顔を輝かせます。
「ただいま、おかあさん!」
「帰ってきてばかりで悪いのだけれど、ちょっとおつかいに行ってきてちょうだい。牛乳と生クリームが足りないのよ」
「わかった! 鞄置いてくるね!」
 男の子はすぐに鞄を置いてお金を受け取ると、濡れたブーツを履いて元気よく外に飛び出していきました。
 雪は降っていますが風もなく、まだ日暮れまで時間があります。近くの商店街なら男の子もよく知っているので、危なくないでしょう。
 途中、雪遊びでもしてから帰ってくるかもしれません。おかあさんはお夕飯に使う野菜を切って、男の子が帰ってくるのを待ちました。

 男の子が帰ってきたのは日も暮れる直前で、払っても払いきれないくらいの雪をコートにくっつけて帰ってきました。思っていた通り、少し雪遊びをしてきたようです。ちゃんとおつかいは済ませていて、男の子は誇らしげに牛乳と生クリームを入れた買い物袋をおかあさんに渡しました。
「買ってきたよ、おかあさん!」
 買い物袋を受け取りながら、おかあさんは男の子の赤い頬や眉毛についた雪を指で拭ってやりました。
「ありがとう。助かったわ。さ、コートとブーツを乾かして、手を洗っていらっしゃい。今日はクリームシチューにするからね」
 やったあ、と男の子ははしゃぎながら、コートとブーツをストーブの前で乾かしました。明日学校に着ていくコートとブーツが濡れたままでは、身体を冷やして風邪を引いてしまいます。
「あ、ねえ、おかあさん。これ見て!」
 男の子がぱたぱたと走り寄ってきて、それを掲げて見せてくれました。
 それは、一本の白いばらの蕾でした。
 よく見るととげもなく、茎は綺麗に切られています。お花屋さんで買ってきたのでしょうか。でも、今は真冬でばらなんて売っていないはずです。
「あら、綺麗なばらねえ。どうしたの?」
「きれいなお姉ちゃんがね、小さい雪だるま作っているとき、一緒に作って遊んでくれたの。そのとき、貰ったんだよ。金髪で青い眼の、優しそうな人!」
「金髪で青い眼?」
 この小さな町ではみんなお互いに顔見知りです。ここで暮らして二十年以上のおかあさんが、金髪碧眼なんて目立つ容姿の女性がいたなら、知らないはずがありません。
「一体誰から貰ったの? 金髪の人なんて町にいたかしら」
 男の子は自分の言うことを信じてくれていないと思ったのか、少し怒ったように、必死に言いつのりました。
「本当だよ! 花が咲いたら、また会いに来てくれるって言ってたもん!」
 おかあさんは男の子を宥めて、小さな花瓶にばらの蕾を活けてあげました。
 男の子は嬉しくなって、花瓶を二階の部屋へ持っていきました。よほどあのばらが気に入ったのでしょうか。

 でも一体誰がばらを男の子にあげたのでしょう。
 季節外れの、綺麗なばらを。

 気にはなりましたが、おかあさんは本格的にお夕飯を作らなければならなかったので、そのことは忘れてしまいました。
 町の役所に勤めているおかあさんの夫はいつも同じ時間に帰ってきます。それに合うようにお夕飯を作るのが、おかあさんの日課でした。
 あたたかいクリームシチューに、パンとサラダ。四人分のお皿とシチューの鍋がテーブルに並ぶと、一気に食卓が華やぎます。
 おかあさんの夫はどちらかというと無口な人ですが、食卓ではいつも上の男の子が、学校であったことをたくさん喋るので、家族の団らんの時間は賑やかに過ぎていきます。
 眠る前、下の男の子が眠れるように、おかあさんは絵本を読んであげます。
 枕元でゆっくり、ゆっくりと読んであげると、子守唄を聞いているようにいつしか下の子は眠ってしまいます。それを見届けてから、夜更かししがちな上の子を寝かせるのもおかあさんの日課でした。
 上の男の子は、窓際の学習机に飾った一輪のばらを見つめています。
「ばらの花、いつ咲くかなあ」
「あら、そんなにばらのお花が好きだったっけ?」
 おかあさんはまだ眠たくなさそうな男の子をベッドの中に寝かしつけました。
「ううん。でも、なんだかすごく楽しみだよ。あのお姉ちゃんにまた会えるからかなあ」
「そうね。そのためにも、ちゃんとお世話してあげなきゃだめよ」
「はあい」
「それじゃあ、もうおやすみなさい」
「うん、おやすみなさい」
 おかあさんは子供部屋の電気を消して、扉をそっと閉めました。眠ったら次の日がやってくるのはすぐです。

 翌朝も空は暗く雪が降っていました。
 薄暗いうちからおかあさんは起き出して、仕事と学校に行く家族のために朝食を作ります。お湯を沸かし、パンを焼き、目玉焼きとサラダを作る頃には、身支度を整えた夫が一階へ下りてきます。
 そのうち上の男の子も弟を起こして一緒に下りてくるのですが、今朝は朝食の支度ができてもまったく起きてきません。
「ちょっと子供たちを起こしてきますね」
 夫に淹れたばかりのコーヒーのカップを渡して、おかあさんは二階へ上がりました。やんちゃばかりですが、毎日学校が楽しい男の子が寝坊をすることはほとんどないのです。
 ノックをしてから子供部屋の扉を開けると、部屋のカーテンも開いていません。まだ二人ともベッドの中です。
 カーテンを開けても、冬空のせいで部屋は明るくなりません。おかあさんは上の子をふとんの上から揺さぶりました。
「ほら、早く起きなさい。学校に遅刻するわよ」
 少し強く揺さぶりますが、男の子は寝入ってまったく起きません。おかあさんはふとんを捲りました。
 男の子は静かに、微笑みながら眠っていました。
 寝息はまったく聞こえません。

 男の子は、眠るように死んでいたのです。
 そのとき、ふと目に入った窓際の花瓶のばらが咲いているのを見つけました。
 雪のように真っ白なばらが、柔らかな花びらを重ねて開いています。
 そこだけ光を当てられたかのようにばらは輝いていて、今まで見たこともないほど綺麗な花を咲かせていました。



 あの白いばらは、上の子が死んだ次の日からまた蕾になりました。
 切り花なのに、数日経ってもまったく枯れることなくそのみずみずしい姿を保っていました。
 おかあさんはそれから白いばらを庭に植えました。
 我が子が死んだときに花開いたばらですから、本当は気味が悪くて捨ててしまいたかったのですが、男の子が大切にしていたばらを捨てるのも忍びないと思ったのです。おかあさんがおばあさんになるまで、白いばらは蕾のまま、ずっと同じ姿を保ち続けていました。
 男の子にばらを渡した女性は一体誰だったのでしょう。それは今でもわかっていません。それは天使か、魔女か、きっと人とは違った力を持ったものなのでしょう。
 確かなことは、あのばらの花が咲いた日、男の子が死んでしまったということだけです。

 あれから何十年。
 夫は老いても相変わらず仕事を続け、下の子は独立して自分の家庭を持っています。おばあさんにできるのは、今の家を守ることと、あの白いばらを見守ることだけです。
 今日もばらの手入れをしようと、おばあさんは庭に出ました。
 玄関の扉を開けて外に出ると、秋の風が肩や首筋を通り抜けていきます。冬がもう、ずいぶん近いようです。
「あっ……」
 おばあさんは思わず声を上げました。
 赤色のばらに紛れて、端の方に真っ白なばらが花を開いています。
 秋の日差しの中、白いばらは輝くように美しく、どこか不吉で忌まわしい色のようにも思えました。
 ざわざわとおばあさんの肌が粟立ちました。
 とても嫌な予感がしたのです。家の向こうから、近所の人が走ってきます。ひどく慌てた様子で、その人は息を切らせながらおばあさんの傍まで駆けてきました。
「奥様、大変です! 旦那様が……!」

 死の予兆を形にして。
 白いばらが、とても綺麗に咲いています。

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