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トナカイの森文庫
The collected reprints of novels
人の心を喰った魔物の話
あるところに野獣のような姿の、真っ黒な毛に覆われた魔物がいました。
魔物は生まれてからずっとひとりぼっちでした。魔物がとても恐ろしい外見をしていたので、見た人がみんな肝を潰して逃げ出してしまうのです。
魔物はずっと友達がほしいと思っていましたが、人や動物に近づくと怖がられて逃げられてしまうので、今の今まで友達を作れたことはありませんでした。
魔物はいつも森の奥の花畑で、誰にも見つからないように暮らしていました。
花畑は日が当たって温かくて、花がたくさん咲いていてきれいな場所でした。
魔物は花が大好きでした。自分の姿を見ても決して逃げ出したりせず、いつも魔物が喋りかけると黙って聞いてくれるからです。
ある日のこと。魔物がいつものように花畑に行くと、そこには小さな女の子がいました。
栗色の髪をおさげにした、ほっぺたの赤いかわいい女の子です。
女の子は魔物を見ると驚いて、どこかへ走っていってしまいました。魔物は今まで感じたことのない気持ちになって、花畑の中にぺたりと座り込みました。
魔物がじっとしていると、先程の女の子が戻ってきました。
女の子は木の陰に隠れて魔物の様子を窺っているようでした。魔物が女の子に気づいて顔を向けると、女の子はまた木の後ろに隠れてしまいます。
けれど魔物が大人しく花畑の中に座っているのを見ると、女の子は木の後ろからおそるおそる出てきて、ゆっくり魔物に近づいてきました。魔物はびっくりしましたが、逃げずにそこに座ったままでした。女の子が魔物の傍にちょこんと座りました。
「ここはあなたのお気に入りの場所なの?」
女の子は魔物に尋ねました。魔物はさらにびっくりしました。
今まで誰かに話しかけられたことがなかったからです。
女の子を見返すと、赤い頬の女の子はにこっと笑っていました。
「こんなに花がきれいなところは初めて見たわ。あなたはいつもここにいるの?」
女の子があまりに普通に話しかけてくるので、魔物は咄嗟に答えられませんでした。
魔物の姿を恐れずに近づいてきた人間は、この女の子が初めてだったからです。魔物は声を出そうとしましたが、なんて答えればいいのかわからなかったので、小さく頷きました。
「そうなの! ねえ、よかったら、またここに来て、お花を摘んでもいい?」
魔物は目を丸くしました。自分がいるような場所にまた来たいなんていう言葉を、初めて聞いたからです。魔物は、今度は大きく頷きました。
お腹の中がほくほくする感覚を、魔物は初めて知りました。
それから女の子は何度もこの森の奥の花畑にやってくるようになりました。
そして女の子は花畑にやってくるたび、魔物に話しかけるようになりました。魔物が危険なものではないと知ったので、怖がらなくなったのです。
「あなたはずっとここにいるの?」
「そうだよ」
魔物も声を出して喋るようになりました。
「あたしはすぐ近くの町にいるの。でも森のお花がきれいだから、摘みに来るのよ」
「まち? それはどんなところ?」
「人がいっぱい住んでいるのよ。とっても賑やかで、パパもママもいるわ」
女の子は、町のお話や、大好きなパパとママのお話もたくさんしてくれました。
魔物にとって女の子のお話はとても新鮮でした。今まで見たこともないようなものばかりなのですから、魔物は驚いて、そして面白そうだと思いました。
女の子の語るものは、人でも、森でも、何でも星のようにぴかぴかと輝いているようにさえ思えました。
魔物は女の子と話すうちに、すぐに女の子のことが好きになりました。
魔物は毎日女の子が森にやってくるのを心待ちにしていました。一緒にお喋りをしたり花冠を作ったりするのが、魔物の一番の楽しみになったのです。
あるとき、いつものように女の子が森にやってきました。
でもいつもと、女の子の様子が違います。
女の子は両手を目に当てて、湿った声で泣きじゃくっていたのです。泣いている女の子を見た魔物は、いつもと違う女の子の様子に戸惑いました。
「どうしたの?」
魔物が首を傾げます。
「ママ……。ママが病気で死んじゃったの……」
女の子は、これほど悲しいことがあるのかと思うほど、大声で泣きました。大好きなママがいなくなってしまって、涙が次から次へと溢れてくるのです。
魔物は死というものを理解していました。けれど、ママが死んでどうして女の子が悲しいのかがわからなかったのです。
そもそも、悲しいとは何かも、どうして人間の目から涙が流れるのかもわかりませんでした。だから女の子が泣いていても何も言えず、黙って傍にいることしかできませんでした。
女の子がしばらくしてようやく泣きやみました。
「ごめんね。突然泣いたりして」
女の子は赤く腫らした目で言いました。魔物は首を傾げます。
「どうして泣くの? ううん、そもそも、悲しいってなに? 涙ってなに? 君は今どうして泣いていたの?」
「どうしてって、悲しいからよ。悲しいと涙は勝手に溢れるのよ」
魔物にはどうしてもわかりません。どういうことなのか、何度女の子の言葉を頭の中で繰り返してみても理解できませんでした。
「悲しいことがわからないなんて、あなたには心がないのね」
女の子が言いました。そして、女の子はそのまま帰ってしまいました。
夜になって、魔物は月を見上げながら考えていました。
心とは何でしょう。それが悲しいということを理解するのに必要なものなのでしょうか。
それさえあれば女の子のように涙を流すことも、女の子が感じることもわかるのでしょうか。女の子のようにぴかぴかとした世界が見えるようになるのでしょうか。
魔物はそう思うと、どうしても心が欲しくなりました。心さえあれば、女の子ともっとお喋りが弾んで、楽しくなるに違いないのです。
魔物はどうすれば心を手に入れられるか、月を見上げながら夜通し考えました。
「心が欲しい」
魔物は次の日、やってきた女の子に言いました。
元気はあまりありませんでしたが、今日は泣いていませんでした。
「心? 心がほしいの?」
「僕には心がないから、悲しいってこともわからないし、涙も流せないんだ。それさえあれば、君の言葉がもっとわかるようになるんだよ」
そうなったら、どれだけ素敵だろうと魔物は思っていました。
すると女の子が言いました。
「それじゃあ、あたしの心をあげる」
女の子は昨日のように、泣きそうな顔をしていました。
「だって、あたしねえ、ママがいなくなってとっても悲しいんですもの。悲しいままは辛いから、あなたに心をあげてもいいわ」
魔物は、まさか女の子が心をくれるなんて思っていなかったので、こんなに早く心が手に入るとは思っていませんでした。突然の申し出を、魔物が断る理由はありません。
魔物が「いいの?」と訊くと、女の子ははっきり「いいわよ」と言いました。魔物はさっそく女の子の心を分けてもらおうとしました。
女の子が心は胸にあることを教えてくれました。
魔物は半分だけ分けてもらうつもりで、女の子の胸から心を取り出しました。
そしてそれを半分にして、自分の口の中に入れました。心をごくりと飲むと、胸の辺りに何かが増えたような、そんな気がしました。
これで自分にも心ができたと魔物は思っていました。
けれど魔物は知りませんでした。
人間も、動物も、心がなければ生きていけないのです。
心を取り出された女の子は、半分を胸に戻しても、心を取ったきり、喋らなくなってしまいました。そして動かなくなってしまったのです。
魔物は心が手に入ったと女の子に語りかけますが、女の子が反応しないので首を傾げました。どうして女の子は何も言わないのか、魔物にはわからなかったのです。
魔物は女の子に何度も話しかけますが、女の子は花畑に座って俯いたままです。
魔物は夜になって、ようやく女の子が花のように何も言わなくなったことを知りました。それはもう、魔物に向かって話もせず、笑うことも泣くこともないのです。
魔物は、女の子が死んでいることに気づきました。
そしてそれは、自分が女の子から心を分けてもらったからだと気づきました。
魔物は取り返しのつかないことをしてしまったのです。
再び心を入れても女の子は動きません。もう魔物と一緒に花畑で過ごすことはなくなってしまったのです。
それに気づいてから、魔物の目からはぽろぽろ涙が零れていました。
心が入った胸が、ぎゅっと絞めつけられるように痛みました。
魔物は気づきました。悲しみと涙を知りました。
魔物は、昨日の女の子のように声を上げて泣きました。
悲しみのままに涙を流しました。泣いている黒い魔物を、月が優しく見下ろしていました。
魔物は再びひとりぼっちになってしまいました。
女の子がいなくなってから、それがどれだけ寂しくて辛いことかを知りました。
それから魔物は悲しみと苦しみの日々を送りました。それはいつまでも癒えることなく、ずっと続きました。
魔物は今でも花畑にいるのでしょうか。
魔物は長生きなので、もしかしたら、今も花畑で泣きながら暮らしているのかもしれません。
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