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トナカイの森文庫
The collected reprints of novels
夏祭り
陽気な祭囃子の音楽がスピーカーから聞こえてくる。
そのスピーカーもかなりの年代ものだから、音は割れてざらざらとした雑音が混じっていた。
日が暮れた神社の境内を、提灯の明かりがぐるりと取り囲んでいる。周りからは楽しそうにはしゃぐ子供と、その家族の笑い声が反響して聞こえてきた。
わたしは歩きながら周りを見回す。
楽しそうに笑う顔をひとつひとつ見て、お母さんじゃないことを確認してから先へ進んだ。
年に一度の夏祭りの日。
娯楽が少ない田舎にとっては、大きな行事のひとつとして夏は大いに盛り上がる。お母さんは誕生日やクリスマスのときと同じくらいはりきって、わたしに浴衣を着せてくれた。淡い黄色で、小さな花が裾や袖に広がっている浴衣に、ピンク色の帯のリボンが背中で揺れる。
お母さんと一緒にお祭りに来たのに、あまりの人の多さにはぐれてしまった。さっきからお母さんをずっと捜しているのに、見つからない。
わたしは人混みから離れて境内の隅に立った。行き交う人を見ても、やっぱりお母さんじゃない。もう会えないかもしれないとさえ思った。ひとりぼっちがわたしを心細くする。「一緒にりんご飴食べようね」と笑ったお母さんの顔を思い出すと思わず泣きそうになった。
「ひとりでなにしているの?」
いつの間にか、わたしの横に浴衣姿の男の子が立っていた。
「きゃっ……!」
わたしは思わず飛び上がった。この男の子はいつわたしの隣に立ったのだろう。誰かが近づいてきたならわかるはずなのに。
突然真横から声をかけられたから、わたしはまるでお化けでも見たかのように驚いてしまった。誰も周りにいなくてよかった。ばくばくと激しく鳴る心臓を両手で押さえながら、わたしは更にぎょっとした。
横に立っていた男の子は、白い狐のお面をしていた。
神社のお稲荷さんの像のような、細長い顔に細い目。それから二本の耳と、高い鼻。目の周りやおでこに赤い模様が描かれていた。屋台のお面屋さんで買ったものだろうか。
表情の変わらない狐のお面が、こちらをじいっと見つめていた。
「驚いた? ごめんね」
無邪気そうな子供の声で、ちょっとだけ低い声だ。
「こんなところでなにしているの? 遊ばないの?」
男の子が首を傾げながらわたしに言う。
縦縞の浴衣を着ている男の子は、わたしよりもちょっと背が高いくらいだ。同じ小学生かと思ったが聞き覚えのない声だった。クラスメイトの男の子なら声ですぐ気づく。
小さな田舎町だから住んでいる人はみんな昔からの馴染みで、どこの家の誰かはすぐわかるはずだ。それなのにどう思い出してみても、この男の子はどこの家の子なのかわからないのだ。
「ねえ、どうしてこんなところでぼうっとしているの?」
答えないわたしに、男の子はもう一度尋ねた。わたしははっと我に返った。
「お母さんとはぐれちゃって。ひとりで、どうしようって思って……」
言葉にするといよいよ胸が詰まって、泣きそうになった。表情の変わらない狐のお面が明るい声色で言った。
「それじゃあ僕と一緒に遊ぼうよ!」
「え……?」
男の子がわたしの手をきゅっと握った。
「ほら、こっちだよ!」
「ええっ……?」
男の子は弾んだ様子で駆け出し、私は引っ張られるまま男の子の後ろをついていくことになった。知らない人についていってはいけない。両親にも学校の先生にもそう言われていた。
けれどわたしは男の子の手を振り払って逃げなかった。どんどん引っ張られて振り払うタイミングがなかったのだ。
それにこの子は、怖くも怪しくもない普通の男の子だ。注意されるような「ふしんしゃ」ではないし、危ないことなんて何もないと思い込む。多分だけれど。
しばらくすると男の子は走るのをやめて、歩きはじめた。どこへ行くのかわからなかったけれど、わたしは特に行きたいところもないので男の子に連れられるままに歩いた。
男の子がまず向かったのは金魚すくいの屋台だった。
屋台のおじさんがわたしたちににこやかに笑いかけてくる。
「いらっしゃい! 遊んでいくかい?」
男の子がわたしを見て、困ったように言った。
「……お金、ある?」
どうやら男の子は何も持っていないらしい。わたしはお母さんからお小遣いを持たされていたので、屋台のおじさんに二人分のお金を渡した。おじさんはにこにこ笑いながら一人分でいいよ、と気前よく言ってくれた。
男の子は弾んだ様子だった。わたしの網はすぐにふやけて破れてしまったけれど、男の子は次々と網から金魚をすくい取っていた。
「すごい。上手なのね」
「これ、得意なんだ。毎年やっているから」
狐面の下で、男の子が自慢げに笑っているように思えた。男の子はたくさん金魚を取ったけれど、二匹だけ持ち返る透明な袋に入れて、あとはみんな金魚の泳ぐプールに返してしまった。
「せっかく取ったのに、返しちゃうの?」
「持ち返っても、家は狭いし水槽もないし、飼ってあげられないんだ。ほしいならあげるよ」
男の子はそう言って取った二匹の金魚をわたしにくれた。鮮やかなオレンジ色の金魚が、小さな透明な袋の中で泳いでいる。
「わあ、かわいい。わたし今まで取ったことなかったから」
「それならよかった」
狐面がにんまり笑った。
金魚すくいの屋台を後にして歩いていると、男の子がふと立ち止まった。突然どうしたのだろうと思っていると、狐の細い目はじっとりんご飴の屋台を見ていた。
「あれ、何のお菓子か知ってる? 僕、食べたことないんだ」
「うそ。りんご飴だよ。本当に食べたことないの?」
わたしはりんご飴が大好きで、お祭りのときにいつも食べるから、まさかりんご飴を食べたことがない子がいるなんて思ってもみなかった。
「すごく甘くておいしいよ」
わたしも見ているうちに食べたくなってきたので、りんご飴を二つ買った。
男の子は嬉しそうな様子でりんご飴を受け取る。
わたしがりんご飴にかぶりつくと、男の子はそっぽを向いた。男の子はしばらくそのままだった。どうしたのだろうと思っていると、男の子はようやくこっちを向いた。棒の先端についていたりんご飴がなくなっていた。
「本当に甘くておいしいね」
男の子は満足げにそう言った。
「今食べちゃったの? それなら別に向こう見ないで、普通に歩きながら食べればいいのに」
「お面の中、見られちゃうのがいやなんだよ」
男の子はお面がちゃんとついているのかを確認するようにお面を両手で触った。
お面の中を見られるのがいやだなんて、変な子だなと思った。
「ねえ、次どこ行こうか?」
「こっち」
男の子はわたしの手を引いて、今度は屋台のある賑やかな境内とは反対の方向に向かって歩きはじめた。男の子が向かっているのは神社の周りにある小さな森のようだ。祭りの明かりがひとつ、またひとつ減っていくたびに、祭りに来た人の賑やかな声も減っていった。
「……ねえ、どこまで行くの?」
段々薄暗くなる場所へ向かう男の子に、わたしは少し不安になった。
神社森は、明るいときならともかく、夜になると真っ暗で何も見えなくなってしまう。怖いから、夕方より遅くには絶対行かないようにしていた。
「もうちょっとこっち。暗い方がいいんだよ」
男の子はわたしの手をぎゅっと握ったまま引っ張っていく。周りが暗くなるにつれてわたしは段々怖くなってきた。このままついていっても大丈夫なのだろうか。取り返しのつかない危ないことに巻き込まれてしまうんじゃないか。
思えばわたしは、男の子の名前も、顔さえも知らない。それがとても怖いことなのだと今気づいた。わたしがいよいよ不安で泣き出しそうになったとき、男の子はぴたりと止まった。
くるりと振り返った狐面が、にんまりとこちらを見ている。
「もう少しだよ」
男の子はそう言って手を離した。一体何がもう少しなのだろう。
わたしは暗い森の中に立ちながら、男の子の言う「もう少し」を待つことにした。帰ろうにも周りは暗くて、境内まで戻るのはわたしだけでは無理だった。
祭りの喧騒から離れた夜の神社森の中を二人で待っていると、ふいにひゅうっと音がした。
何だろうと思ったとき、空で大きな音が弾けた。瞬間、薄暗い夜空に赤い花が咲いた。
「わあっ……!」
花火だ。夜空に次々と花火が打ち上がり、身が竦むほどの大きな音がどん、どんと爆ぜる。
神社から少し離れた川沿いで、毎年夏祭りの夜に花火が上がるのをすっかり忘れていた。暗い森の中では、光り輝く花火がくっきりと見えてきれいだった。
狐面の男の子が言った。
「少し暗い方がきれいに見えるんだ。ここは僕の特等席だよ」
「本当! きれいに見えるね」
花火はあっという間に終わってしまった。
再び静かになり、薄暗さが戻ってきた神社森の中で、狐面がにこにこ笑っている。
わたしもそれに笑い返した。
男の子と森から神社の境内に戻ったところで、わたしはお母さんを見つけた。
お母さんはあちこちをきょろきょろと見回していたけれど、すぐにわたしに気がついた。お母さんはわたしに駆け寄ってきてわたしをぎゅっと抱きしめた。
「もう、心配したじゃない! どこに行っていたのよ!」
「ごめんなさい。でもね、この子と遊んでいたの」
わたしは後ろにいるはずの男の子の方を振り返った。
けれどそこにはもう、男の子はいなかった。
「……どの子?」
お母さんの問いかけに、わたしは何も答えられなかった。
家に帰ってから、わたしは二匹の金魚を見せて男の子と遊んだことをお母さんとお父さんに話した。けれどどれだけ特徴を言っても、二人ともその子がどこの子かわからないみたいだった。
二人ともしきりに首を捻らせて「変だねえ」「どこの子かしら」と言っていた。
二人にもわからないなんて、やっぱりちょっと変だと思った。
わたしは翌日、散歩だと言って家を出た。
真夏の日差しはきつく、じっとしていても汗が滲んでくる。
わたしは町の端から端へと歩いた。家をひとつひとつ見ていったけれど、どの家もみんな知っている。やっぱり男の子が住んでいそうな家は見つけられない。
ふと、田んぼの脇の小道を歩いていると、昨日お祭りがあった神社の脇で大人たちが集まっているのが見えた。神社森の前には工事でもするような大きな機械もある。一体何をしているのだろう。
「こんにちは。何をしているんですか?」
わたしがそう声をかけると、振り向いた大人の男の人たちは、眩しい日差しに目を細めながらにこやかな笑みをわたしに向けた。
「おや、小夏(こなつ)ちゃん。朝から散歩かい?」
「いや、神社森の脇に、すごく古くて小さなお社があったろう? 小さな鳥居と祠があって」
そういえばそんなものもあったな、とわたしは思った。
確かお祭りがあった神社とは別に、森の傍に小さな祠があった。すごく古くて崩れかけみたいな祠で、どんな神様が祀られているのかも知らない。
「この祠ね、色々あってお引っ越しさせるって話になったから、祠を取り壊しているんだよ」
傍にあった機械は祠を壊すのに使うのだと男の人は言った。
「えっ? それじゃあ祠の中の神様はどうなるの?」
大人たちは不安そうな顔をしたわたしに笑いかけた。
「大丈夫。神様も一緒に壊したりなんてしないよ。これから別の場所に移ってもらうんだ」
「危ないから、今日はこの辺から離れていてね」
大人たちが口々にわたしに言う。わたしは言う通りにその場を離れようとした。
「すいませーん。これ、祠の中にあったんですけど、どうします?」
若い男の人が祠の中から何かを持ってきて、周りに見せた。
「……なんだこりゃ?」
「お供え物じゃないよな。誰かのいたずらか?」
大人たちが何かを囲み、困ったように言い合っている。去ろうとしたわたしは、何のことを言っているのか気になってそれをちょっと覗いてみた。
「あっ……」
若い男の人が持ってきたのは、子供用の狐のお面だった。それは昨日の男の子がしていたお面とまったく同じものだった。間違いない。わたしは言った。
「神様のものなのかも。一緒にお引っ越しさせてあげられませんか?」
「そうかなあ」
大人たちは一度顔を見合わせ話し合ったみたいだが、別にお面くらい一緒に持っていってもいいだろう、という話に落ち着いたみたいだった。
その後、古い祠はそのまま取り壊されてしまった。
神様もお面と一緒に、少し遠いところへ行って新しい祠で暮らすことになったらしい。
今度の祠は、金魚が飼えるくらいの広さがあるだろうか。
来年も再来年も、わたしは男の子に会えるかと思って夏祭りに行った。
けれど男の子とはそれきり、もう二度と会えなかった。
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