top of page
トナカイの森文庫
The collected reprints of novels
渡り鳥の細工
昨日お泊まりになられたお客様を送り出し、宿の清掃も終えた、お昼過ぎのことでした。
わたしのお宿は午前中にみんな清掃を終えてしまうので、お客様が来られる夕方近くまでは少し時間ができます。その間にお野菜や小麦などの食材を買いに行ったりするのですが、今日はそれもないのでゆっくりできそうです。
窓を開けてさわやかな夏の風を宿の中に入れながら、わたしはカウンターの中の椅子に座っていました。窓の外では、小鳥たちが可愛らしい囀りを奏でています。
穏やかな昼下がりの、ぽかぽかした陽気。優しい眼差しのような光が窓から差し込んでいるのを見ると、ふと懐かしい人を思い出します。
わたしの父です。この宿の先代主人で、男手ひとりでわたしを育ててくれた人。
チョッキを着た長身が少しキザで、でもいつも優しい目でお客様やわたしを見つめていた人でした。そして皺の寄った大きな手で、温かいコーヒーを淹れスープを作っていました。
わたしは小さい頃、宿の仕事のお手伝いをしながら、いつも父の後ろにくっついていました。そうしてお掃除をしたりお布団を干したり、お料理を習ったのです。
わたしには生まれたときから母がいません。
でも父がいたから、わたしは寂しくありませんでした。
眠れないときに本を読んでくれたり、クッキーを焼いてくれたりした父。
建国記念日のお祭りの日、にこにこしながらわたしを送り出してくれた父。優しい父の眼差しと大きな手の感触がお日さまの光に似ていて、わたしは父のことが大好きでした。
そんな父の目が、時折寂しげに翳るときがあったように思います。
そう、悲しそうに何かを見つめていたような気がするのですけれど、あれは一体何を見つめていたのだったかしら。以前もそのことについて考えましたが、結局今も思い出せずにいます。
窓の外で、小鳥が絶えずに鳴いています。
こんなに鳴いているのは珍しいことです。少し落ち着きがないくらい。何かあったのかしらと思っていると、お店の扉が開きました。
こんな時間からお客様でしょうか。そう思い、わたしは立ち上がりました。ドアベルが軽やかな音を立て、革のブーツがお店の床板を鳴らしました。
帽子を押さえた旅装のお客様の顔を見て、わたしは驚いたのだと思います。声もかけず、お客様の顔を凝視していました。
お客様は、柔らかな緑色の羽毛に全身を覆い、鋭い嘴と瞳を持っていらっしゃいます。鳥族の方です。稀に人間以外の方はいらっしゃいますが、鳥族の方は初めてでした。
「――レティシア、だな?」
低い声で、お客様が言いました。
「はい。この宿の主人、レティシアと申しますが」
お泊まりですかとお尋ねしようとしたとき、その方は「おお、そっくりだ」とひとりごち、頷きました。懐かしそうに目を細め、その方はこちらへ歩いてきました。
「突然押しかけてすまない。私は渡り鳥のアーサーという。今日はあなたに用事があってやってきた」
「わたしに用事、ですか?」
お客様以外で、わたしに直接用事があってこられる方はそういません。思い当たることが何もなく、わたしはすっかり面食らってしまいました。アーサーさんはカウンター席のひとつに腰を下ろし、カウンターの中にいるわたしを見上げました。
「私は、あなたの父母の知人だ。……といっても、会ったのは赤ん坊のときだから、あなたは私を知らないだろう」
わたしは頷きました。父はずっと宿を営んでいましたから、外に鳥族の知人の方がおられるとは思ってもみませんでした。ということは、もしかしたら以前この宿を使ってくださったお客様なのでしょうか。
「失礼ですが、アーサーさんは、父の代のときに宿へいらした方なのでしょうか?」
アーサーさんは懐かしそうに瞳を細めました。
「うむ……。かれこれ何十年前になるだろうか。あのときパトリックに淹れてもらったお茶の味は忘れられないよ」
そんなアーサーさんに、わたしはふと思い立つことがありました。
「よろしければ、何かお淹れしましょうか。ちょうどネビュアから茶葉が届いたところですし、ハーブやコーヒー豆もとっておきのものが揃っていますよ」
「おお、それでは頼もうか。……アイスのロイヤルミルクティーを淹れてくれ」
「はい。かしこまりました」
わたしは水を入れた鍋を火にかけ、棚に並べた缶のひとつを取り出しました。
沸騰してから鍋の中に茶葉を入れます。
「……パトリックは」
アーサーさんの言葉に、わたしは一度顔をそちらへ向けました。
「……パトリックが逝ったというのは、本当か?」
ちくりと痛む胸を覚られないように、わたしは笑いました。
「……はい。五年ほど前のことです。それからはわたしがこの宿を継ぎました」
「そうか……」
わたしは鍋の中に、ミルクを注ぎ入れました。アーサーさんは少し寂しそうな視線をカウンターに落としていました。
老境にあった父は、五年前眠るようにこの世を去りました。
今際の父は弱々しく、ベッドに横たわったまま天井をいつも見つめていました。
ひとりぼっちになったときは、それは寂しかったのです。わたしにとって唯一の家族でしたから。一人分の温度が減った宿の中が、とても寒く感じられました。悲しくて泣いてばかりいたのですが、その後、わたしは泣かなくなりました。
この宿を守りたいと思ったのです。曾祖父の代から少しずつ作り上げてきた、優しい空間。
お客様がお部屋やお食事の席でくつろぎ、旅の疲れを癒して笑ってくれるこの場所を、これからも存続させたかったのです。
古い常連さんもいらっしゃって、王都へ来た際にわざわざいらしてくださるのに、閉めてしまうなんてできませんでした。
――渡り鳥みたいに旅をするお客様が、羽を休める場所なんだよ、うちは。
そう言ってお客様をあたたかく迎える父のことを思い出すと、わたしは悲しんだまま立ち止まってはいけないと思ったのです。
わたしは出来上がったロイヤルミルクティーを、氷の入ったグラスに注ぎました。クリーム色の液体が注がれたグラスをアーサーさんにお出ししました。アーサーさんはグラスを傾け、しばらくは目を閉じてアイス・ロイヤルミルクティーを楽しまれていました。
「……あなたは、母のことで何か知っていることはあるか?」
ふと尋ねたアーサーさんの言葉に、わたしは「いいえ」と答えました。
母は、最初からいませんでした。わたしが生まれている以上母は存在するのでしょうが、母のことで知っていることは何もなく、顔も名前も知らないのです。
昔、父に母のことを聞いたことはありますが、寂しそうな顔をするばかりで話してくれたことはありませんでした。私がそのことを伝えると、アーサーさんは「そうか」とだけ言いました。
「……では、あなたは知らねばならないだろう。あなたへの用事というのは、あなたに伝えたいことがあるからなのだが、まずはあなたの母のことを教えた方がいいようだ。今から話しても構わないか?」
アーサーさんの問いに、わたしは頷きました。
彼は目を細め、黄色い嘴を開き、ゆっくりと語り始めました。
***
私は、昔からあちこちを飛び回りながら旅をしている。
あてのない根なし草だが、さて、どうしてこんな暮らしをしているものか。
ただ興味の赴くまま渡り飛び、空の下を生きてきた。
思えば何かを成したことも志したこともない人生だ。それでも私は、ただ空の下で生きることに喜びを感じていた。
ある夏の日、そんな私がひとりの女に会った。
オスタールのある山にいたとき、私は毒蛇に襲われ羽を痛めてしまった。毒で身体は痺れ、羽を傷つけられ飛ぶこともできない。ひどく暑い日で、あのときはもう駄目だと思ったのだが……。
ひとりの旅の女が通りかかった。
短い赤い髪の、目元がきりりとした気の強そうな女だった。
何もない山に人間の女が来るとは珍しいと思っていると、女は私に近づいた。左手にはめていた赤い石の指輪を私の傷口に押し当て何かの呪文を唱えた。
するとみるみるうちに痛みは引き、身体の痺れも和らいだ。
女は魔法使いだった。それも石に秘められた力を引き出すことができる、貴石の魔法使いだ。
「……痺れもじきに失せるだろう。飛べそうか?」
外見に似合わず、優しい声だった。
それが私と、貴石の魔法使いアガーテの出会いだ。
私はそれから、しばらくアガーテとともに旅をした。
たまたま行き先が一緒だったからなのだが、それですっかり私たちは意気投合してしまってな。それから長い間、友人として過ごしたものだ。
魔法使いというものは、半分が旅をするそうだ。それぞれの専門分野を研究したり、知識を活かして世界中の自然環境を見守ったりする。魔法使いは常に自然とともにある。
旅の魔法使いがひとつところに留まることはほとんどないらしい。
彼女もそうで、どこかに落ち着くこともせず、ずっと旅を続けていた。
アガーテは貴石の魔法の使い手として、世界中の宝石や土の性質などについて研究し、異変があった場合は対処するような生活を送っていた。
魔法使いにはそれぞれ専門分野があって、どんなものでも思い通りに、好きにできるような魔法を使える者はいないものらしい。
だから貴石の魔法使いも数が少なく、アガーテはずっと世界中を飛び回っていた。
私も旅をしているから、時には彼女と道行きをともにし、時には離れて過ごし、たまに会っていた。彼女と出会って六年もした頃だったか。久しぶりに会った彼女は少し照れながら言ったんだ。
「……実は、結婚したんだ」
彼女が話してくれた、結婚のいきさつはこうだ。
カスティアの土質を調べていたところ遅くなり、王都に宿を取ることにした。
しかし、その頃は戦争の傷跡がまだあちこちに残っている時代だった。他国の魔法使いだからという理由で、アガーテはどこにも泊まることができなかったのだそうだ。
そんなとき、ひとりの男が「うちの宿に泊まるといい」と言って、小さな宿に案内した。男はその老舗宿屋の主だった。
「変わってるな。魔法使いを好んで泊めようなんて……」
「魔法使いだろうが竜の一族だろうが、疲れている旅人に種族も何もないじゃないか。うちはお客様の止まり木になるためのお宿なんだから」
男は、そう言って笑いながら彼女に温かいスープを振る舞った。
彼女は驚いたそうだが男に優しさを感じ、しばらく宿に逗留したそうだ。それから二人は一緒になった。しばらくともに暮らし、子も産まれた。
しかし、アガーテの元にロレスタの山についての調査依頼が届いた。
彼女は旅の魔法使い。ひとつところに留まることはできない。羽を永遠に休めるときは、魔法使いをやめるときと、死ぬときだけなのだ。
彼女は再び旅に出た。そして、二度と夫の元へは戻れなかった。
それが貴石の魔法使いアガーテ。
あなたの母だ。
アガーテは一度も帰らなかった。だが、勘違いしないでほしい。
お前たち家族のことを蔑ろにしたことは一度としてない。アガーテはずっと、夫パトリックと娘レティシアを想って暮らしていた。
たまに会うときも、お前たち家族のことばかり話していたくらいだ。
どれだけ離れていても、一生会うことがなくとも、彼女は二人を愛していたのだ。
アガーテを一度泊めたここは、それ以来ただの小さな宿ではなくなった。
その頃カスティアをどうしても訪れなければならなかった魔法使いたちが、アガーテを泊めた宿の話を聞きつけて泊まっていくようになったのだ。
パトリックは快く、訪れた魔法使いたちを泊めてくれた。魔法使いでも人間でなくても泊まれる希少な宿として、魔法使いの間でそれなりに噂が立つようにもなった。
魔法使いには魔法使いの情報網のようなものがあるらしくてな、情報を共有したり互いに助け合ったりするそうだ。内に閉じた狭い世界みたいだな。それもあって、この宿の噂もすぐに広がった。あなたも今まで魔法使いを泊めたことがあるのではないか?
普通の客以外に魔法使いが時折訪れるのはそういうわけがあるのだ。あなたはこれからも、彼らを快く泊めてくれるとありがたい。……そうか? それなら安心だ。
わたしも一度、パトリックとは会ったことがある。そう、宿へ泊めてもらったのだよ。人のいい、料理上手な男だったな。アガーテが惹かれるのも当然だと思ったものだ。
ああ、今でもこの宿の特製スープは健在なのだな。嬉しい限りだ。今度泊まりにきたときにでも是非食べさせてほしい。……そうか、楽しみにしているぞ。
私は以前この宿に泊まったとき、アガーテからの預かり物を彼に渡した。それはアガーテがどうしても用立ててほしいと言って私に頼んでいたものでもあったのだ。
それは渡り鳥をかたどった、揃いのブローチだよ。
アガーテは二つのブローチにそれぞれ、自分の持っていた青と赤の宝石を埋め込んで、赤い方は自分が持ち歩いた。青い方を私がパトリックに届けたのだ。
離れていてもずっと一緒だという、アガーテの気持ちが込められた贈り物だ。アガーテはそれをいつも持って大事にして、時折じっと眺めていたものだ。あなたの父も大切にしていたはずだ。
パトリックとは一度会った後も、何度か手紙をやりとりしたことがある。
あなたの宿の寝具。いい羽毛を使っているだろう? この渡り鳥が、必要なときに特注の寝具を作らせてあなたの宿へ届けているのだ。
あなたは先代と同じように、同じお店に寝具を発注していただろう。詳しい経緯は知らなくて当然だ。全部パトリックと私とのやりとりなのだから。
パトリックが亡くなったことは、風の噂に私の元へ届いた。もちろん、アガーテの元へも。
彼女はひどく悲しんでいたよ。あんな気丈な彼女が泣いているところなど初めて見た。
そしてレティシア、娘のあなたのことをずっと心配していた。父を亡くし、ひとりぼっちになったあなたがこれから先無事にやっていけるかどうか、ずっと、そのことを心配していた。
アガーテは旅の合間に、あなたに会いにいくこともきっとできただろう。しかしいざ王都まで来てみても、足が自然と遠のいてしまうと言っていた。
あなたに会うのが怖かったのだそうだ。
産んですぐにパトリックに後のことを託し、旅に出た自分のことを恨んでいるんじゃないか。
母のいない生活を強いた自分をよく思っていないんじゃないだろうか。突然母親だと言って目の前に現れたとき、自分を受け入れてくれないんじゃないか……。
そんな不安が先について、どうしてもあなたに会いにいくことはできなかったと言って、あの赤い宝石のついたブローチを悲しそうに見つめていた。
母のことをどう思っているか、聞かせてもらってもいいだろうか? ……本当に、恨んだりしていないんだな? そうか。それなら少しは、彼女も安心してくれるだろうか……。
それで、肝心の報せておきたいことというのは……。
そうだな。もう察しがついているだろうとは思うが。
すまないが、はっきり告げなければならない。
つい、一週間ほど前のことだ。オスタール国には、よい宝石が採れる鉱山がある。
定期調査に赴いたアガーテは、そこで落盤の事故に巻き込まれてしまったのだ。
私は話を聞きつけてアガーテの元へ飛んでいった。
埋もれた鉱山を掘り出し、救出されたときには、もう、駄目だったのだ……。
私は、ただのしがない渡り鳥。眠るように死んでいるアガーテにしてやれるようなことは、何もなかった。どうか許してほしい。
アガーテは芯まで冷たくなった手で、赤いブローチを握りしめていた。きっと最期まで、パトリックとあなたのことを想っていたのだろう。旅暮らしのアガーテにとって、大切な家族の存在がどれほど救いになったことか。
……辛いことを話したな。すまない。
けれど、あなたにはちゃんとアガーテのことも、彼女の想いも、知っていてほしかったのだ。
これを、持っていってくれ。
今話した、アガーテがずっと持っていた、赤い宝石のついたブローチだ。
唯一あなたに渡してあげられる遺品だ。
私には、あなたにこれを渡すことしかできない……。
いいのだよ。これはあなたに持っていてほしい。娘のあなたが受け取るのなら、彼女もきっと喜ぶだろう。
一度も帰ることができなかった彼女のかわりに、どうか傍に置いてやってくれないか。このブローチも飛び続けていて疲れたろう。羽を休め、つがいに会いたがっていることだろう。
いいや、礼を言うのはこちらの方だ。よく今まで無事に、健やかに育ってくれた。
そしてよくこの宿を守ってくれた。彼女とパトリックの思い出の場所、そして旅人たちが羽を休める止まり木を、変わらぬ姿で留めてくれた。ありがとう。
……ここへ来て、あなたに会うことができて本当によかった。二人はもういないのに、二人の血は受け継がれ、宿は変わらぬ姿でここにある。私にはそれが何より嬉しい。
ここを、これからも大切にしてほしい。これからもここを頼って訪れる客人がいるだろうから。そしてあなたも、いずれ子を成し、この場所を次へ繋いでほしい。
こんなことを、ただの渡り鳥が言うのは生意気かもしれないが……。
ああ、本当は久しぶりにこの宿でゆっくりしたいのだが、行くところもあるのでな。また次の機会にここへ来ることにしよう。今度は客としてな。
ロイヤルミルクティー、馳走になった。
では、悪いがこれで……。
***
アーサーさんは一礼をして、宿を後にしました。
まるで、風が吹いてすぐに去っていったような、あっさりとした邂逅と別れでした。
宿の中は、再び静かになりました。
天気のいい昼下がり、外では小鳥が鳴き続けています。
わたしの耳には、アーサーさんのお話がひっきりなしに繰り返され、響いていました。
カウンターの上には、赤い宝石が埋め込まれた渡り鳥の細工があります。
赤い宝石は深い色を湛えながらも、あちこちに小さな傷がついていたり、尻尾の部分が少しだけへこんでいたりして、大変な旅をしていたことが窺えます。
それをそっと手に取り、わたしは抱きしめるように両手で包みました。
「お母さん……」
わたしは、初めて母をそう呼びました。その瞬間、わたしの目から熱い涙が零れていました。
わたしは今日、初めて母に会うことができました。
わたしはその後、父の遺品を仕舞っている棚の中を調べました。
その中に、青い宝石のついた、母のブローチと同じ形のブローチが見つかったのです。
それを見たときに、わたしははっとして、ひとつのことを思い出しました。
父は時折、寂しそうな顔で何かを見つめていました。
それが何だったのか、幼かったわたしはすっかり忘れていたのですが、それはこのブローチだったのです。遠く離れている母のことを、父は何も言わずに、ずっと想っていたということなのでしょうか。
狭い籠の中で、訪れる旅鳥に止まり木を用意していた青い宝石の鳥。
どこかで羽を休めることもできず、ずっと飛び回っていた赤い宝石の渡り鳥。
二羽の渡り鳥は長い旅を経て、ようやく再会したのですね。
そんな二羽の鳥は並べてみると、まるでつがいのようでした。
父と母は再会することなく死んでしまいました。けれど、向かい合った二つの渡り鳥の細工を見つめると、悲しみよりも、あたたかな気持ちが溢れてくるのを感じます。
そのとき、わたしはひとつのことに思い至りました。
本当は。
寂しくなかったなんて、嘘なんです。
ずっと母がいないことがとても悲しかった。
父が病でいなくなってしまって、ひとりぼっちになったことが寂しかった。
宿を存続させたい意志は強く心にありましたし、アーサーさんに語ったことはみんな本当です。
でも、それは両親がいない悲しみを覆い隠すようにしたかったから。忙しく働いて、少しでも悲しみから気を逸らしたかったから。
だからひとりきりの宿になるべく日の光を取り込んで、観葉植物や花を置いて華やかにして、寂しさを紛らしていたのです。
でも、そんなことしなくてもよかったのですね。
わたしには、愛してくれた両親がいました。優しい父と、ずっとわたしを想ってくれた母がいました。
それは今も同じで、たとえ死んでしまっていても、何もかもなくなってしまうわけではないのですね。わたしを愛してくれたことは、記憶となってわたしの中に残り続けて、わたしを見守ってくれているのですね。
わたしはきっと、もう大丈夫。
心の奥に仕舞い込んでいた悲しみを紛らせるのは、もう終わりにします。
二人の愛をいつも傍に感じられるから、もうひとりぼっちでも、悲しむのはやめにします。
わたしは二つのブローチを鍵のついた小箱に収め、棚の奥に仕舞いました。
その後のわたしの生活は、今までと同じ。いつもと同じでした。
お布団を干して、お部屋を整え、お掃除をして、植木鉢に水をやって、お店の前を掃く。訪れたお客様にパンを焼き、スープを作り、お茶を淹れておもてなしをして……。
わたしの日常は特に変わることはありません。今日も明日も、未来もずっと、宿へ来られるお客様を誠心誠意お出迎えするのです。初めて来られるお客様、常連のお客様、それに、たまに魔法使いのお客様……。
どんなお客様にでも、この宿は扉を開くのです。ここは旅鳥たちの止まり木ですから。
え? たまに寂しくならないのかって?
ええ、たまには、そんなこともあるのですけれど。
でも、わたしの心には父と母が愛してくれた記憶が、ブローチと一緒にいつも傍にあるから、大丈夫なんですよ。わたしはずっと元気のまま、がんばっていけます。
ふふ、まるで魔法のようですね。こんなことを本物の魔法使いに言ったら、怒られてしまうかしら。でもわたしがひとりで勝手に思う分には、いいですよね?
旅の宿トマリギ亭はこれから先も、変わらぬおもてなしでお客様をお迎えするのでしょう。
わたしは毎日変わらない生活をしながらも、ずっと愛され続けてきたものを受け継いで、このお宿を守り続けていきます。
そしてきっと、わたしのいない未来までずっと……。
カラン、とお店のドアベルが鳴る音がして、わたしはカウンターから立ち上がりました。
お店の扉を開いた、お客様をお迎えするために。
bottom of page