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盾を持つ騎士

 ある初秋のことでした。
 夏の花の終わりと秋めいてきた風の冷たさに、夏の終わりを感じずにはいられませんでした。
 わたしは夕方近くまで、お店の前を箒で掃いていました。鮮やかな夕暮れが見られるようになると、少し肌寒くなります。
 お店に戻って、今日のお夕飯はどうしようかしらと考え始めた頃のこと。

 お店の扉を年若い青年が開けました。柔らかい金の髪をした、純朴な印象の方でした。緑色の瞳が、とても優しい色をしていたからそう思ったのかもしれません。
 青年はわたしに穏やか、というより少し腰が低すぎるくらいの態度で宿に泊まりたいと言いました。ご記帳によると、お名前はエルレイドさん。

 その方がどういった方なのか、お話を聞くことができたのは一泊して後の翌朝のことでした。
 ご朝食をお出ししたとき、差し支えなければ、とお尋ねしたのです。

     ***

 ……僕は、その、つい昨日まで、王国騎士団の一兵卒だった者です。いえ、ただの一兵士ですし、騎士を辞めた身の上ですから、すごいことなんて何もありませんよ。
 はあ、あの、緊張なさらずと言われましても、僕は元々こういう性質でして……。
 すみません……。

 はい、とってもよく眠れました。他の宿と比べると、内装が落ち着いているものですから。
 あ、すみません。その、変という意味ではなくて……、王都の他の宿は人も多いしきらびやかなので、苦手なんです。これくらい落ち着いている方がのんびりできていいです。
 ベッド、すっごくふかふかで気持ち良かったですし、パンもふわふわですし。
 このチーズと野菜、グラン農場印でしょう? あそこのチーズ、美味しいって評判ですよね。ミルクもバターも美味しいんですよ。

 僕、北方の小さな農村の出身なんです。北は農業地帯でしょう? 僕の家も農家なんです。
 僕は、こんな弱い自分が嫌で、王都まで出てきて騎士を目指しました。僕はこの通りの、臆病で、気の小さい性格ですから。騎士は王国を守る勇士が集まりますから、騎士になれば僕は強くなれると思ったんです。

 ただの兵士には、最低限の訓練があればなれます。それから上位の騎士になるのは大変らしいですが、僕はとにかく兵士になれればと思っていたので、ずっと下っ端のままでした。

 周りは強くて男らしい人たちばかりでした。
 でも、僕はそこでも気の弱い僕のままでした。騎士になれれば何かが変われると思っていたのに、臆病な僕は騎士になっても変われなかったんです。
 それでも強くなるまで僕はがんばって騎士であろうとしました。どんな下っ端仕事だって、騎士であることには変わりない。だから僕はどんな雑用だって進んでやっていました。


 あるとき、僕の所属する小隊に北方の森に出る害獣を仕留めろという命令が下りました。
 今年の夏の終わりのことです。
 家畜を襲い、畑を荒らす野獣を討つという任務は、わりと騎士団に多く寄せられてきます。

 今は戦争もない平和な時代ですから、王城や要所・街道の警護と、犯罪者を捕まえたり害獣を仕留めたりするのが騎士の主な仕事になっているんです。
 僕が所属する小隊は遠征の準備をして、北に出発しました。北方の農業地帯へ赴くのは随分久しぶりでした。

 僕は騎士になってから、まだ一度も里帰りをしていませんでしたから。騎士は王都の本部に詰めていないといけないので、故郷に帰る機会はほとんどなかったんです。
 北へ赴く途中、久々の遠征に仲間たちは少し浮かれていました。
「北のド田舎に出てくる野獣なんだろ? 大した奴じゃなさそうだな」
「けど城の警護よりマシだろ」

 仲間たちはそう言って笑い合っていました。みんな、ほとんど南方出身だから自然の脅威をあまり知らないのだと思いました。僕は北出身ですから、森がどれだけ危険かも、野生の獣の脅威も、風雪の恐ろしさも身をもって知っていたのです。

「……あまり舐めていると危ないよ。腕の立つ猟師の手に余る相手だなんて、きっとすごく危険な野獣のはずだよ……」
 僕がたどたどしくそう言うと、仲間たちは更に笑いました。
「まったく、エルレイドは臆病だなあ!」
「俺たちは王国騎士団だぜ? これだけ数もいるんだし、大丈夫さ!」

 仲間は僕の背中をぽんぽん叩きながらそう言いました。
 入団してからずっと付き合いがあったので、僕を馬鹿にするような人は同じ小隊にはいませんでした。周りは僕の気性を知ってくれているいい人ばかりだったんです。

 北の風は夏でも涼しく、とても心地良かったです。
 木と土の匂い。故郷の風と空気は僕をとても安心させてくれました。北のある農村で一泊して、僕たちは野獣がいるという森へ向かうことになりました。

 そこは北の大地の中でも一番深く険しい森でした。
 そこは地元の者でさえ滅多に立ち寄らない薄暗い森で、危険な生き物も多く生息している森です。僕は正直、怖かった。けれど仲間たちは初めて見る森にやっぱり浮かれていて、怖さよりも心配になりました。何も起こらなければいいと思っていたんですが、杞憂で終わってはくれませんでした。

 僕たちの小隊は縦に長く伸びた状態で、森の中を進んでいきました。
 木々が日の光を遮っていて、まだ午前中だというのに森はとても暗かったです。鳥も獣も人が入ったことで大人しくなっていました。森は静かで、暗くて、不気味でした。

 森へ入ってそろそろ正午に差しかかる、そんな時間でした。昼食もかねてのしばしの休息を終え、出発の号令がかかったときでした。森の奥からがさ、と何かが動く音がしました。
 動物だろうかとみんな思っていたのですが、それは、狼に似た野獣でした。赤黒い体毛に覆われた、仔牛くらいの大きさの、爪と牙が鋭く光る獣――。

 小隊は慌てて武器を取り、野獣を迎え撃ちました。
 この野獣がきっと狙いの奴だろうと、みんな確信していました。
 勇敢な兵士たちが剣や槍を手に野獣に向かっていきました。

 でも、素早い野獣をなかなか仕留めることはできませんでした。傷を負わせてもあまりひるまず、野獣は仲間たちを襲いました。怪我をする人も何人かいましたが、幸いその場で死者は出ませんでした。
 手傷を負った野獣が逃げ、みんなで追うことになりましたが、僕は腰が引けて、仲間たちとすっかりはぐれてしまいました。こんなときにも僕は臆病で、何もすることができなかった。

 ようやく震えが止まったときには手遅れで、僕はひとりになっていました。
 僕は仲間を捜しながら森を彷徨っていました。足元の見えていなかった僕は、後ろがまさか切り立った崖になっているとも知らずに足を踏み外し、転げ落ちていってしまいました。

 次に目が覚めたときは、もうすっかり暗くなっていました。
 森には野獣はもちろん、他にも危険な生き物たちがたくさんいます。夜になってしまったら森はもっと危険になる。
 僕はもう帰れないと思いました。
 森の中で、何かに襲われて死ぬんだと思うと、目の前が真っ暗になりました。

 僕は今まで、何をしてきたんだろう。
 農家の子として働くこともせず、勇気のある立派な騎士になることもできない。臆病で弱い僕のまま僕は死ぬんだと思うと、どうにもやりきれない、悲しい気持ちになりました。
 崖から落ちた僕の左足は、挫いたのか上手に歩くことができませんでした。
 痛みに痺れる足を引き摺りながら、僕はなんとなく、森の中を歩きました。

 暗い森で、ひとりきりで、どうにかするあてなんてなかった。けれど死ぬのも怖かったから、森を出ようとしました。
 歩き回って、疲れ果てて、もう動けなくなって、僕は地面に座り込みました。
 携帯していた食べ物が荷物の中に少しだけ残っていて、僕はそれを食べようとしました。ほんの少しのパンでも、食べないよりマシだと思って。

 そんなとき、木の上から鮮やかな緑色の小鳥が降りてきました。
 わざわざ人に近づいてくるので人慣れしているみたいでした。もしかしたら、村の方まで飛んでいってパンの欠片をもらっているのかもしれない。
 そう思うと小鳥が可愛く思えて、僕はパンを細かくして投げてやりました。すると小鳥がそれを次々ついばんでいきました。

 畑を耕していた子供の頃は、こうして飛んでくる小鳥にパンをあげて、羊や馬の世話をしながら静かに暮らしていました。
 それの何がいけなかったんだろう。

 騎士になったことを故郷にいる父は立派だといって喜んでくれました。けれど強くなりたい反面、騎士なんて性に合わないと正直思っていました。
 動物たちと静かに暮らしていたあの頃が、とっても懐かしくて、無性に恋しくなったのです。

 僕はパンに齧りついて半分だけ食べると、あとはみんな小鳥にやってしまいました。
 そしてその場に転がって、眠りました。眠っている間になら襲われたって怖くないと思ったんです。けれど僕は翌朝、目を覚ましました。

 日が昇って、辺りが明るくなっているのを見て驚きました。地面で眠り込んで、命があるなんて思ってもみませんでしたから。
 それも、昨日眠った場所とは違う場所に僕はいて、挫いた足には薬草があてられ、端切れが巻かれて手当てしてありました。
 傍には綺麗な泉があって、あたたかい日が差し込んでいました。
 花が咲いていて、小鳥や鹿や狐や、動物たちが集まって静かに過ごしていました。僕はまだ夢でも見ているんじゃないかと思ったほどです。

 僕が起きると、動物たちが僕の目の前に木の実や果実を置いていきました。
 動物たちは何も言いませんが、もしかして食べ物を取ってきてくれたのかなと思いました。
 食べ物を置いていくだけで食べないので、森の恵みなのだと思ってそれをありがたくいただくことにしました。

 食べ終わって、さてこれからどうしようと思いました。
 すると動物たちが集まってきました。何だろうと思っていると、森の向こうから、大きな影が近づいてくるのです。

 それは二本足で立っていましたが、顔は山羊に似て、熊よりも大きな身体をしていました。
 そして頭上に、まるで冠のように立派な鹿の角を持っていました。
 まるで森の王、森の主のようでした。
 もしかしたら本当にそうなのかもしれない。森には人間などより長く生き、とても賢く勇猛な生き物もいます。

 この森は深く険しい。きっと昔から存在する森の住人のひとりには違いないと思いました。
 動物たちを従えるようにして現れたそれの肩の上に、昨日の小鳥がとまっていました。

 小鳥は僕の前に降りてきて、つぶらな黒い目で僕を見上げました。パンのお礼でしょうか。僕には分からなかったのですが、森の生き物たちに助けられたことだけは確かだと思いました。
 僕は助けてくれたお礼を森の王に言いました。通じるか通じないかはわかりませんでしたが、もし目の前の大きな存在が、本当に偉大なる森の王なのだとしたら、きっと人の言葉がわかるだろうと思いました。どっちにしても伝えたいことはちゃんと伝えたかった。

 僕がお礼を述べると、角のある者は僕の剣と盾を置いてそのままゆっくりと引き返していきました。剣と盾があれば何とか身を守ることができます。とりあえず森を早く出ようと思いました。僕はすぐに準備をして、その場を離れました。

 けれどそこがどこかわからない。森の出口の方向がわからなくて、僕はどうしようかと悩みました。森を出ようにも、これでは身動きが取れない。もし迷ったりしたら今度こそ死んでしまうかもしれないと思いました。

 困り果てていると、あの小鳥が僕の頭上の木にとまりました。
 本当に人懐こいなあと暢気に思っていたら、小鳥が木から木へ移ったんです。それもそんなに遠くない、近い木から木へ移りました。小鳥がこっちをじっと見ているのに気づいて、僕は思わず小鳥へ話しかけていました。
「……もしかして、道案内をしてくれるの?」
 僕がそう言うと、鳥はまた近くの木へ移って、こちらの方を見るのです。

 やっぱりそうだと思って、僕は小鳥についていくことにしました。道はさほど険しくはなく、ずっと小鳥に続いて歩いていくとやがて森の終わりへと辿りつきました。
 振り返って木の上を見ると、小鳥はまだ木の上にいて、小さく鳴きました。
 僕はもう一度小鳥に「ありがとう」と伝え、森を出ようとしました。

 すると、向こうの草の影から、あの野獣が飛び出してきたのです。
 僕はもうびっくりして、盾に隠れてぎゅっと目を閉じました。
 がん、と盾の向こうから野獣が激突してくる衝撃がありました。
 僕はそのまま押されて尻餅をついてしまいました。

 そのとき「エルレイドか!」と聞き覚えのある声がしました。
 はぐれた仲間の騎士たちです。みんな無事でいたみたいで、仲間たちは数人がかりで野獣を剣や槍で突き、僕を助けてくれました。
 人の顔を見ると僕はすっかり安心して、泣きそうになりました。みんな、口々に「大丈夫か?」「無事だったんだなあ」と心配してくれました。野獣を仕留め、「さあ帰ろう」と誰かが言いました。

 そのとき、動かなくなったはずの野獣が突然動き、仲間に襲いかかりました。
 仲間が危ない。僕はそれだけを考えていて、自分が何をどうしたのか覚えていません。でも気がついたら、僕の剣が野獣の喉首を刺し貫いていました。
 僕はびっくりして、慌てて剣から手を放しました。
 剣は野獣と一緒に地面に落ち、野獣は目を開けたまま今度こそ動かなくなりました。

 僕はへたりと腰を抜かして情けなく震えていましたが、もう少しで野獣に噛みつかれそうだった仲間は僕に「助かったよ」と言い、他の仲間も「やるじゃないか!」と口々に僕を褒めちぎりました。
 僕は怖くてまたぶるぶる震えていましたが、仲間たちはそんな僕を心配してくれました。

 野獣の首を切り離して、僕たちは一緒に森を出ました。森を出ると、遠征のときに泊まった小さな村が草原の向こうに見えました。
 それから任務を終え、僕たちの小隊は王都へ戻りました。
 仲間とも再会し、任務も成功して、僕はひと安心でした。

 でも、僕はその後すぐに騎士を辞めました。
 森の中で生死の境を彷徨い、動物たちと触れ合ってみて思ったんです。
 僕は、こっちの方がいいって。

 静かな村で動物たちと暮らし、森に寄り添い、畑を耕している方が性に合っていると改めて思ったんです。
 僕は騎士になることで、自分の中にある弱さを殺して男らしくなろう、立派な騎士になろうと思っていました。がんばっていたし、楽しいことも仲間との思い出もあるのですが、無理しなくていいんじゃないかって思いました。

 勇気のないことも弱いことも、いいことじゃないし、情けなくて辛くなるときもありますけれど、その代わりお腹が空いて疲れているとき、寄ってきた小鳥にパンを分けた自分でもいいと思えたんです。
 弱くて臆病なのも自分。
 だからそんな自分を受け入れて、もっとのびのび暮らしてみてもいいんじゃないかなって。

 昔から好きだった、動物たちの世話をしながら、花を摘んだり糸を紡いだりする生活に戻っても、いいんだって。
 剣を持ち、力を振るうことで何かを守る生活と、盾を持って、力なく何かを守る生活。
 剣に憧れてはいましたが、僕は後者の方が好きだと気づいたんです。

 朝食を済ませたら、すぐ故郷に帰ろうと思います。
 騎士になることを快く送り出してくれた父は、突然帰ったら驚くだろうなあ。母は心配性だから、僕が帰ったら何か悪いことがあったんだと心を痛めてしまうかも。

 でも、先だっての任務が評価されて少しばかり報奨を貰ったので、喜んでくれるかもしれません。村のみんなで分ければ少しは生活の助けになるでしょう。

 早く帰って、小鳥にパンをあげたり犬と一緒に羊を追ったりしたいなあ。
 帰ったら帰ったで大変なことはたくさんあると思うけれど、僕は僕らしく、がんばろうって思うんですよ。

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