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文結び

 新緑の木々が風にそよぐ、初夏のことでした。
 その日ドアベルを鳴らしながらお店に入ってきたのは、赤を基調とした制服姿の若い男性です。赤い帽子のつばを押さえながらお店に入ってきた男性は、「世界伝書機関」の郵便配達員さんです。

 お名前はヴィクセンさん。短く淡い金髪がさわやかな、とても人あたりのよい方です。
 世界伝書機関は世界中の郵便物を扱っている機関で、中立国オスタールに本部があります。
 ヴィクセンさんはカスティア支部の伝書機関に務めていて、いつも王都までたくさんの郵便物を運んでこられるのです。

 王都までお仕事に来た帰りに泊まられることがままあるので、一応常連さんになるのでしょうか。お手紙を入れている黒い革の鞄を肩にかけ、ヴィクセンさんはわたしににこりと微笑みかけました。

「こんにちは、ご主人。今回もまたお願いしますよ」
 張りのある朗らかな声で笑うヴィクセンさんに、わたしも笑いかけました。
「こんにちは、ヴィクセンさん。はい。ご記帳お願いしますね」
 ヴィクセンさんは差し出したペンで名前を書いて、チェックインを済ませるとお部屋で少しお休みになられました。ご夕食の折、一階に下りてこられたヴィクセンさんは、楽しげに近況などを話してくださいました。

     ***

 このトマトスープの牛肉、とろけそうなほど柔らかいですね。
 野菜もとても甘くて、美味しいです。やっぱり宿はここに限りますよ。
 はい、僕は今日も郵便配達でした。王都は広いですからね。配達は大変でしたけど無事に終わりましたよ。
 ええ、同僚たちと協力するんです。同僚は明日も仕事があるので先に帰りました。僕は久々に休暇を貰えたので、今日はのんびり泊まっていこうと思いまして。

 はい、そうですよ。普通は各町にある郵便局で郵便物を扱い、町内へ配達します。
 他国への郵便物はは船に乗ってオスタール本部に行き、そして他国の支部へ送られます。
 僕は町にいる普通の配達員ではなく、港町フォルトナにある支部に勤める配達員です。ですから他国からの郵便物を王都まで届けるのが主な仕事です。
 ええ、色んな話を聞きますよ。はい、ご主人お好きですからね、お客さんの話聞くの。
 それじゃ、何かお話ししましょうか。何がいいかなあ……。


 それじゃ、あの手紙にまつわる話にしようかな。
 その手紙はね、僕が配達を請け負ったもののひとつでした。宛先も差出人も書いていないものでね。届けられないものでした。そうした手紙は稀にあるんですよ。大抵はその国の支部に回されてしかるべき処理がなされるんです。
 僕の手違いで他の郵便物と一緒に王都に持ってきてしまったみたいなんです。それは仕方がないので、後から支部に持ち帰ればいいのですが……。

 そのとき、とても困ったことになりました。というのも、おかしなことが起こりましてね。魔法使いにとっては普通のことなんでしょうけれど。
 王都で郵便物を配っている最中のことです。
 僕は黒い鞄の中から最後の手紙を取り出しました。赤い封筒で、宛先も差出人の名前も書かれていないまっさらなものでした。これは支部に持ち返らなければと思って鞄の中に仕舞おうとした、まさにそのとき。

 風もないのに、手紙がふわっと宙に浮いたんです。
 本当に、風に飛ばされるようにひらりと舞い上がって、僕は空中に手を伸ばしました。けれど、手紙はそのままみるみるうちに形を変え、鳥の形になると飛んでいってしまったんです。

 僕は呆然としました。まさかこんなことになるなんて思いもしませんでしたから。
 とにかく手紙を回収しようと思って、僕は鳥を追いかけました。入り組んだ王都の道を駆け抜け、青空の下を飛ぶ鳥を追いかけました。鳥は封筒と同じで赤かったので見逃すことはありませんでした。僕は走って、走って、鳥が羽を休めたところで追いつきました。

 そこは入り組んだ路地の奥の、小さな民家の前でした。
 煉瓦造りの小さめの家で、庭にたくさん花が咲いていて綺麗でしたよ。
 ちょうど夕暮れ時でしたから、緑色の葉も明るい色の花も、みんなあたたかなオレンジ色に染まっていて、風にそよいでいました。
 赤い小鳥は家を囲う塀の上にとまっていました。僕が鳥を捕まえるべく近づこうとしたとき、家の戸が開いて中から家人が出てきました。

 家人は若い女性で、夕日のような色の髪を三つ編みにして垂らしていました。長いスカートの裾に花の刺繍がしてあって、赤いショールを肩にかけていました。
 その女性は家から出てくると、真っ先に赤い小鳥の方へと歩いてきました。赤い小鳥は彼女が伸ばした指先に飛び移りました。
 僕が手紙を回収する機会を逸してぼうっと立っていると、赤い小鳥はたちまち元の手紙の姿に戻り、手紙を彼女が手に取っていました。僕ははっと我に返って女性に歩み寄りました。

「あの、すみません」
 声をかけると彼女は僕に気がつきました。
 驚いたように見開いたその目は、夕日の色をしていました。
「その手紙は差出人と宛先不明で、世界伝書機関で預からなければならないものです」

「いいえ、これは私宛ての手紙ですわ」
 柔らかな声で女性が僕の言葉を遮りました。
 僕は出端を挫かれて、言葉に詰まってしまいました。
「この魔法がかけられた手紙は、鳥になって私の元に飛んできました。つまり私宛てなのです」

 女性は手紙を見せるように持って、僕に微笑みかけました。魔法だと言われても、そんな言葉では納得できない。僕は何とか手紙を返してもらおうとしました。
「ですが、そうした宛先・差出人不明の郵便物は、すべて世界伝書機関が保管すると決まっています。どうか返してください」
 女性は眉尻を下げ、困っているような表情を作りました。
「でも、これは確かに私宛てなのです。どうしたらわかっていただけるかしら」
 女性はしばし逡巡して、こう言いました。

「お時間がよろしければ、少し落ち着いていかれませんか。手紙のことについてもご説明できると思います」
 彼女は家の中に誘うように腕を広げました。僕は少し考えました。一応勤務中だったので、人の家でのんびりしていいものか迷ったのです。

 けれど赤い封筒の手紙以外は配ってしまったので時間は気にしなくても大丈夫なはずです。
 それに手紙を取り返さなければならない。このままでは「私宛て」だと言い切られて持っていかれてしまうと思って、僕は彼女の提案に乗ることにしました。

 女性の家の中は、普通の民家そのものでした。
 女性は透明なガラスのカップにハーブティーを用意して、テーブルの上に置きました。向かい合わせになるように座って、彼女は切り出しました。
「私はアニスと申します。細々と暮らしている、しがない魔法使いのひとりですわ」

「本当に魔法使いなのですか? では城に仕えているのですか? それとも……」
 魔法使いなら、軍の者か研究員の者かと僕は思いました。
 カスティアの魔法使いは大抵自分の素質を王国に仕えることで活かす者が多いと聞きましたので。けれどアニスさんはそうではありませんでした。

「いいえ。私は国に尽くすような魔法使いではありません。私の出身は北の方の小さな村で、王都へ出稼ぎに来ているのです」
 カスティアの北方は自然が豊かで、農業が盛んな地域なんですよね。
 でもアニスさんの家は貧しく、生活のために王都のお店で働いているらしいのです。彼女はちょっと照れたように頬を赤く染めました。
「私、大した魔法使いではありませんの。風をちょっと操れる程度で、手紙を飛ばしたりするくらいしか能がありませんのよ」

 アニスさんは葉が沈んだティーカップに口をつけました。僕もつられるようにハーブティーを少し飲みました。花の香りがして、とても美味しかったです。
「それでは、先程の手紙のことは、どういうことなのでしょうか?」
 手紙を飛ばすくらいしか能がないと彼女は言いました。つまりあの手紙には魔法がかかっていて、自分のところに届くようにしていたはずなのです。それなのに世界伝書機関の郵便物に紛れるなんて、変だと思いました。

「私は故郷にいる友人と手紙のやりとりをしています。あなたがご覧の通り、あの手紙には魔法がかかっていて、小鳥になって私と友人の間を行き来しています。きっと何か手違いがあって、手紙が伝書機関に渡ってしまったのだと思います」
 アニスさんはそう言いますが、僕には納得できませんでした。
 そんな説明だけで、はいそうですかと手紙を渡すわけにはいきません。アニスさん宛ての手紙だという証拠は、まだ何もないのですから。

 僕が納得していないことなど、アニスさんにはお見通しだったのでしょう。彼女は立ち上がり、後ろにある棚の引き出しから何かを取り出しテーブルへ持ってきました。それは手紙の束でした。みんな友人から送られてきたものだとアニスさんは言いました。

 それからあの赤い封筒の封を切って中を取り出しました。僕はぎょっとしましたが、その手紙の筆跡と、彼女の友人からの手紙の筆跡は、どうやら同じものでした。
 それに手紙の最初に「親愛なるアニスへ」と書かれていました。
 他の手紙もその言葉から始まっています。どうやら、彼女が言ったことはどれも本当のようだと、僕も納得せざるを得ませんでした。

「この手紙は、故郷にいる友人からのものなのです。彼女は私の隣家の娘で、明るくて気さくな子でした。姉妹のようにずっと一緒に育ってきたのです。それなのに、私がちょうど王都へ行く時期になってから、病気になってしまった」
「……ご病気ですか。身体がどこかお悪いのですか?」
 するとアニスさんは悲しそうな顔で、首を横に振りました。

「彼女が病んだのは、心です。あるとき、森へ狩りに出ていた彼女の最愛の弟が、獣に襲われて死んでしまいました。食い散らかされた無残な遺体を見てから、彼女は心がすっかり弱ってしまって、家からも出られなくなりました」

 アニスさんの友人は気塞ぎになって、何度も自殺を図るようになってしまったのだそうです。アニスさんは開いていた手紙の紙面をそっと撫でました。
「これには、手首を切ってしまったと書いてあります。こっちは、お腹をナイフで刺してしまったと……」

 世界には、生きたくても生きられない人もたくさんいる。僕だって食べていくために必死で働いていますから、自殺を何度も図るなんて信じられないことでした。
 僕の父だって病気で早くに死んでいます。もっと生きたかっただろうに、苦しそうに僕の目の前で息を引き取りました。だから自殺しようとするなんて、僕は正直、許せなかったです。

「辛いかもしれませんが、自殺だなんておかしいですよ。だって……」
「こればっかりは仕方がないことなんですわ。そういうふうになってしまうから病なんですの。自分で治そうと思って簡単に治るものではないし、苦しみは本人だけのものですから、誰かが癒せるものでもないのです。彼女はどうしようもなく悲しくて、苦しいのです。日々それと闘いながら、やっと生きているのですよ」

 アニスさんは悲しそうにそう言いました。
「私は、少しでもこっちに彼女を留めておきたくて、手紙を年に何度か送っているのです。それで自殺未遂がなくなるほどの力なんて、私の言葉にはありません」
 彼女は広げた手紙をひとつずつ、丁寧に戻していきました。

「……私、故郷では魔法使いだともてはやされていました。でも私の魔法なんて、なんて不便なのでしょう。彼女を元気づけるだけの豊富な言葉を知っているわけではなく、心の病を治す薬など作れない。風を操れるなんて、彼女の力にもなれないくだらないものですわ」
 アニスさんは手紙の束を細い紐できゅっと結んで束ねました。僕はアニスさんが手紙を棚に仕舞うのを黙って見ていました。

 僕はもう、手紙を取り戻そうとは思っていませんでした。
 手紙はアニスさんのものでしたし、もうどうでもよかった。遠い地にいる二人の心を繋いでいる手紙。ただその手紙が彼女の元に無事届いたことがよかったと、そう思いました。
 大事な友人を生へ必死に繋ぎとめようとしているアニスさんと、死の淵を見つめながら生と死の境界を行ったり来たりしている彼女の友人。

 彼女がまだ向こう側に行っていないのは、アニスさんから手紙が送られてくるからじゃないのか。アニスさんとの繋がりが、彼女の唯一無二の、死へ落ちないための命綱なのじゃないか。
 そう思うと、つい考えてしまうのです。もしアニスさんの手紙が途切れてしまったら、その友人はどうなってしまうのか。手を放されたら、向こう側にいつ行ってもおかしくないのではないか。僕にはそう思えてならなかった。

「……ひとつ、よろしいですか?」
 僕が口を開くと、アニスさんは夕日の色をした瞳を僕に向けました。
「どうして、手紙に魔法をかけてやりとりを?」

「伝書機関が頼りないわけではありません。ご安心ください。ただ、少しでも早く彼女の言葉を知り、彼女に言葉を返したいのです。いつか、手遅れになる日がくるかもしれないから」
 伝書機関は必ず手紙を届けます。けれどしかるべき手筈を整えて配られるので、手紙が届くのに少し時間がかかります。確かに鳥になってまっすぐ彼女の家と友人の家を行き来した方が早いのかもしれない。

「私は怖いのです。私が手紙を送った後、小鳥が帰ってこなかったらと思うと、怖くてたまらなくなります」
 彼女は窓の外を見やりました。窓から赤い夕日が差し込んでいました。
「嫌でも考えてしまうのです。もし生きることが辛いのなら。彼女がそれを望まないのなら。私が手紙を送り続けることは、彼女にとって本当にいいことなのでしょうか。私は彼女を苦しめているだけなのかもしれません。それなら、いっそ……」
「アニスさん……」
 彼女はゆるゆると首を振りました。何かを振り切るように、否定するように。

「呼びとめるような形になってしまってごめんなさい。手紙の件はもうよろしいでしょうか」
「ええ。あなた宛てだということは確かみたいなので。……伝書機関に持ち返らず、ちゃんとあなたの元に届いてよかった」
 持ち帰ったらどうなっていたのか。僕は想像するのが怖かったです。もしかしたら取り返しのつかないことが起こったかもしれないのですから。

 僕は彼女の家を辞すことにしました。そろそろ戻らないと、油を売っていると同僚に思われてしまいますし、手紙の件も解決しましたから。
​ 小さな庭が美しい門前まで、彼女は見送ってくれました。

 僕は別れる前に、思ったことを彼女に伝えました。
「……ご友人には、ちゃんとあなたの言葉が届いていると思います。そうじゃなければ、自殺未遂などにならないのではないのでしょうか。勝手な思い込みかもしれませんが。死ぬならいくらでも方法があるのに、今の今まで手紙が届くのは、ちゃんとご友人にあなたの言葉が届いて、こちら側に繋ぎとめているからだと、僕は思いました」

 アニスさんは目を丸くして、僕を見上げていました。言った途端にすごく恥ずかしくなって、僕は多分真っ赤になっていました。
「か、勝手な物言いですが、その……」
「いいえ。ありがとうございます」
 アニスさんは柔らかく微笑みました。彼女の瞳の中で、夕焼けが燃えるように輝いていました。


 僕は今回のことで、思い直したことがあるんです。
 世界伝書機関は人から人への、大切な手紙や贈り物を送り届ける、大切な仕事です。知っているつもりでしたけれど、それを実感していたかというと違っていたように思います。

 遠く離れた人から手紙や贈り物を貰って、喜ぶ人の顔は見たことがあります。
 けれど、アニスさんはご友人を生に繋ぎとめるために手紙を送っていた。それが切れてしまったら、取り返しのつかないことになりかねない。
 そんなこともあるのだと、僕は今まで感じて手紙を配達していたでしょうか。

 僕がいつも送り届けているのは、手紙じゃなかった。
 誰かがそこに込めた大切な想いなんです。
 なんとなく伝書機関に入ってたくさんの手紙に囲まれて、僕は与えられた仕事をただ事務的にこなしていたんだと、初めて気づいたような気がします。

 お互い手紙によって、見えない糸で繋がっているんだ。
 結んだり解けたりするけれど、僕たち配達員の手違いで解けてしまうことだってあるかもしれない。折角結ばれている糸が切れないように、これからも伝書機関の配達員としてがんばっていきます。人の想いを届ける配達員としての責任を、僕はこれから噛みしめながら仕事をしていきたいです。

 夕日を見ると、アニスさんのことが思い出されて、その誓いを違えないようにしようと思えるんですよ。

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