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トナカイの森文庫
The collected reprints of novels
真珠姫の歌
日差しの少しきつい、夏の日のことでした。
窓から差し込む眩しい日の光がお店の床板を照らしています。開けた窓からは乾いた熱風がのろのろと入ってくるばかりで、わたしはあまりの暑さに息を吐きました。
何か冷たいものでも淹れようかしらと思ったときです。
木製の扉が開き、床に影を落としながらお客様が入ってこられました。このお宿は予約の必要がなく、いつも飛び入りでお客様がいらっしゃるのです。
お客様は、日に焼けた浅黒い肌に汗を浮かべた男性で、シャツを着崩した姿が妙にしっくりくる、体格の逞しい方でした。わたしはお客様にご記帳をお願いしてから、二階のお部屋にご案内いたしました。するとお客様は、
「すぐ下に行くから、何か冷たい飲み物を淹れてくれないか。さっぱりするヤツがいいな」
とおっしゃいました。わたしは「かしこまりました」と返事をして先に一階に戻りました。
急いでお湯を沸かし、アイスハーブティーの準備を始めます。その間にお客様はお部屋にお荷物を置いて、一階に戻ってこられました。
火照った顔で飲食用のテーブル席に腰を下ろし、額の汗を拭っています。
わたしはポットにペパーミントティーを少し濃く抽出してから、氷をたくさん入れたグラスに注ぎました。このお茶はさっぱりとした爽やかなミントの風味が夏にぴったりで、身体の熱を冷ましてくれるのです。
***
わざわざすまねえなぁ、ご主人。喉がカラッカラだったんだ。
……ふぅ、こりゃ生き返る。さっぱりするねえ。
それにしても、お嬢ちゃんが本当にこの宿のご主人なのかい? いや、オレが王都に行くって言ったら、仲間からここを紹介してもらったのよ。
ただ、ひとつの宿をこんなに若いお嬢ちゃんが切り盛りしてるってことには半信半疑だったんだ。気ぃ悪くしないでくれ。……本当かい? そりゃよかった。
仕事かい? オレはただの船乗りさ。客を他の大陸に渡している運び屋よ。
ここから街道を真っ直ぐ行ったところに、フォルトナっていう港町があるだろ? そこにオレの船があるんだ。
潮風が気持ちよくっていい町だぜ。魚も美味いし、何より青い海がどこまでも見渡せるんだ。その上を真っ白な海鳥たちが飛び交っている。ご主人が見たらきっと綺麗だって言うぜ。
……ああ、悪ぃなあ。急に話し始めちまって。え? 客の話はどれも面白いって? そうかい? ご主人がそう言うなら何か面白い話でもひとつしてみるか。
オレは船乗りだからな。色んなことに出くわすもんさ。
なにせ海といや、そりゃたくさんの言い伝えがあるからな。伝説も山ほどあるぜ。漁船を襲う怪物の話や、海の生き物の王国の話とか、もう数えきれないほどさ。
で、肝心の話は……、そうだな、アレにするか。もう三十年以上も前だから……、オレが十三歳くらいのヒヨっ子の船乗りだった頃の話さ。
オレはフォルトナで生まれて、ずっと船乗りとして海の上で生きてきた。親父も船乗りでな、親父から海の大冒険の話をたくさん聞いて、オレは海に憧れたんだ。
海原に乗り出した船の柱に掴まって、さわやかな潮風に吹かれると、気持ちがさっぱりする。
あの感覚が好きで、オレは海に出るのさ。
で、オレは当時、船乗り見習いの子供だった。
一人前の船乗りになるために、ある大きな商船の下働きをしていたんだ。
あるとき、王都の豪商が色んなお宝をその船にたくさん積んで、他国でひと儲けしようって話になったらしい。たくさんお宝を積んで、船は隣国オスタールへ向かった。途中までは順調な船旅だった。けど、海のど真ん中を進んでいたある夜のことだ。
突然、船が沈んじまったのさ!
まるで海に腕が生えて、船を引っ繰り返しちまったみたいだった。そのとき波は穏やかで、船が突然沈むわけがなかったのさ。乗組員はみんな海の中に投げ出された。
船が木端やお宝を海に撒き散らしながら沈んでいった。
オレは泳げたから海面に出ようとした。他にもそういう奴はたくさんいたんだ。泳げねえような軟弱な奴は、海の男にはいねえよ。
それで、海面に出ようとしたオレたちの前にそいつが現れた。商船を下から引っ繰り返して、沈めやがった野郎さ。そいつは人を餌にするために船を襲ったんだ。クジラよりもでけえ化物だったぜ。
その化物の赤い目が、泳いでいる船乗りたちをぎろっと睨んでな、大きな身体をひねらせて、その口で船から這い出た奴らをひと飲みにしやがったんだ!
海水や木端ごと丸呑みだ。オレはそれを目の前で見て、急いで海面に出ようとした。けど、そいつは残りの奴も狙って口をあんぐり開けた。真っ暗な口は、あの世の入口に見えたぜ。どれだけ早く泳げたって、向こうは船を軽く沈めちまうほどの海の怪物だ。
魚より速く泳げる人間なんかいやしねえからな。オレはもう諦めかけていたんだ。
――もう駄目だ、食われる!
そう思ったときだった。薄暗い海の中で、白い閃光がこう、カッと光ったんだ。そしたらその化物はさっさと逃げていった。そいつは光が苦手だったのさ。オレは助かった。
けどそのまま息が続かなくなって、溺れて意識を失っちまったんだ。
……いやいや、ご主人。そこで死んでちゃオレはここにはいねえよ。海で溺れたオレを助けた奴がいたんだ。ここから先はまるでおとぎ話よ。ご主人は信じられるかな?
オレを助けたのは、結論を先に言うならあの化物を追っ払った光を出した奴さ。
オレが目を覚ますと、そこは大きな貝殻の上だった。オレは貝殻の中にこう、ホタテみたいによ、横になってたんだよ。
オレの横には、ピンク色の長い髪の女の子がいた。その子はガラス玉みたいな透明な目をしていて、珊瑚色の唇をした大層な美人だったんだ。今でも一番綺麗なのはあの子だと思ってる。
……あ、ここだけの話だぜ! 女房には内緒だ。
で、問題はその女の子の下半身が青い魚だったってことだ! お腹から下は宝石みたいにきらきらした青い鱗に覆われて、半透明の尾ひれがついていた。
オレは仰天した。その子は人魚だったんだ。
海にいるって話は伝わってても、船乗りの中で人魚を見たって奴はいない。滅多に姿を見せないらしいからな。
女の子はオレが目を覚ますと、笑って言ったんだ。
「……よかった。目を覚ましたのね」
彼女は尾ひれを翻してオレに近づいた。
まるで宙に浮いているみたいだと思っていたら、そこは海の中だったんだ。確かに水が纏わりついているような感覚があった。魚だってあちこちに泳いでいたんだ。
「人間がここに来るのって初めてかもしれないわ。あなた、運がいいわね」
女の子はそう言った。オレは、そのとき目の前のものがみんな本当か信じられなかった。
海で溺れた後だから、オレは死んでると思ったんだよ。
「……ねえ、ここどこ? 海の中? あの世じゃないの? 君は、本当に人魚なの?」
「人間って質問が多いのねえ」
女の子はおかしそうに笑って、ここは海の底にある人魚の国だということを説明してくれた。
「わたしはマーガレット。この国の四番目の王女よ」
「オレはマリク。見習いの船乗りなんだ。王女さまがオレを助けてくれたの?」
「マーガレットでいいわ。あの怪魚に襲われていたでしょ? あれは人魚も食べる恐ろしい怪物なの。あれが王宮の上に現れたと聞いて、わたし、追い払いに行ったのよ。それであなたを助けたの」
人魚は魔法を使えるんだな。オレが海の中で見たのは、光が苦手な化物を追っ払うための光の魔法だったってわけだ。それを人魚のお姫様が使って、溺れたオレを人魚の国に連れ帰って助けてくれたんだな。
けど、人魚の国に人間は絶対入れちゃいけないって掟があったらしい。理由は知らねえけど、国の掟は絶対だったって話だぜ。
マーガレットは言った。
「人間のあなたがここにいるのは秘密なの。他の人魚に見つかったら、あなた、捕まって殺されてしまうのよ。だから大人しくしていて。そうしたら、わたしが他のみんなの目を盗んで、ちゃんと陸へ返してあげるわ」
殺されるなんて物騒だろ? 人魚の大半は人間があまり好きじゃないらしい。
理由は知らないが、マーガレットみたいに人間に好意的なのは仲間内じゃ珍しかったそうだから、彼女に助けられたのは本当に運がよかったのさ。
オレはしばらく人魚の国で過ごすことになった。
誰かに見つかるとまずいから、誰も来ないこの空き部屋から出ないようにとマーガレットに言われて。
本当は外に出てみたくて仕方なかった。海底の人魚の国なんて滅多に来られるもんじゃねえからな。けど、殺されるって言葉を思い出すと、部屋の外には出られなかった。
海の底は不思議と寒さを感じなかった。貝殻のベッドは結構快適だったぜ。小さな丸窓から外をこっそり覗くと、岩の上を鮮やかな色の魚がすいすい泳いでいた。
それに光り輝く立派な宮殿も見えたんだ。金銀で飾られて、たくさんの人魚や魚が集まっていた。夢のような光景だったぜ。今でもよく覚えてるよ。
マーガレットは毎日部屋に遊びに来た。
そして色々話しているうちに、すっかり打ち解けて仲よくなったんだ。オレは命の恩人のマーガレットに、礼になるようなものは何も返してやれなかった。それで、少しでも彼女に楽しんでもらおうと、海の上の話をたくさんしたんだ。
船乗りだった親父の話とか、嵐を乗組員みんなで乗り越えた話とかさ。どんなにくだらない話でもマーガレットは嬉々としてみんな聞いてくれた。あいつ、元々人間に興味があったのかもしれねえな。
マーガレットは歌が得意だった。
歌詞は聞いたこともないような言葉でよくわからなかったが、その歌声はどんな歌より綺麗だった。今でも耳の奥には彼女の歌声が響いているんだ。覚えているから今でも歌えるぜ。忘れないように、よく海の上で歌っているのさ。
オレは一人前の船乗りになるんだって夢も話した。
そうしたら次の日、マーガレットはあるものを持ってきた。それは綺麗な首飾りだった。
魔法の力を持った人魚が作ったお守りさ。大きな真珠玉に綺麗な形の貝殻、そして珊瑚の粒がきらきら光っていたものだった。
「これをマリクにあげる。わたしが見つけた真珠と貝殻でこしらえたお守りよ。邪悪なものや、海の上の災難を追い払ってくれるように、おまじないをかけたの」
「こんなに綺麗なもの、本当にもらっていいの?」
オレがそう尋ねると、彼女の瞳は今にも涙が溢れそうに潤んでいた。彼女はオレに首飾りをかけて言った。
「だって、わたしにたくさん素敵な話をしてくれたわ。それに、わたしの歌をたくさん聞いてくれたんですもの。綺麗な歌だって言ってくれたんですもの。わたしは海にいて、あなたは陸へ帰るけれど、わたし、あなたのこと忘れないわ。ずっと友だちでいてくれるでしょう?」
「もちろんだよ! オレもマーガレットのこと、ずっと覚えてるから。ずっと友だちだからね!」
約束したんだ。
住む場所は違ってもずっと友だちでいるって。
子供みたいな約束だろ? でも本気だったんだ。
ずっとマーガレットと一緒にいられるわけじゃない。陸へ帰ったら海底の人魚の国にはもう行けない。離れたらもう会えないってオレもマーガレットも分かっていたんだ。
永遠の別れが、オレたちに近づいていた……。
ある晩のこと。マーガレットは今なら人魚の国を抜け出して、陸へ連れていけるって言った。
とうとう別れの時がきたんだ。オレたちは海に出る前に、ぎゅって抱きしめ合って別れを惜しんだ。お互い言葉もなくしばらくそうして、やっと海に出た。
マーガレットは海の中でも息ができる魔法をオレにかけた。そうそう、オレが人魚の国で普通に過ごせたのは、彼女がずっとオレに魔法をかけ続けていたからなんだ。
オレはマーガレットに手を引かれて夜の大海に出た。
人魚の泳ぎは早くて、真っ暗な海の中をすいすい進んだ。月の光が届かないと、夜の海は真っ暗で何も見えねえ。オレは初めて海が怖いって思ったよ。
海の底から月の光が届くところまで上がってきて、ようやく海面が見えるようになった。
そうしたら、闇の中で、何かが蠢いたような気がした。マーガレットは突然泳ぎを速めた。オレは手が引き千切れそうなほどの勢いでマーガレットに引っ張られて、ぐん、と海面へと上がっていった。
そして気づいた。船を沈めたあの怪魚――奴がそこまで迫ってきていることに!
奴は光が苦手で闇を好む。夜は奴が一番活発に動き回る時間だった。
けどマーガレットは危険を承知で夜を選んだ。仲間の目を誤魔化してオレを陸の上に連れ出すのは、みんなが寝静まった時間じゃないと無理だったんだ。
化物はオレたちを狙って後を追いかけてきた。マーガレットの泳ぎは速かったけど、あっちはでかい怪魚だ。すぐに追いつかれそうになっちまった。
マーガレットは突然オレの腕を離して、オレの背中へ回り込んだ。
あの化物に対峙するような格好になって、彼女は珊瑚でできた杖を掲げていた。オレを逃がして、自分は化物と戦うつもりだったんだ。
「このまま上がっていけば陸に着くわ。早く行って!」
「嫌だよ!」
オレは友だちを見捨てるようにして帰るなんて嫌だった。男らしくないし、かっこ悪ぃだろ。
それにあの怪魚は人魚も食べるって最初にマーガレットが言っていたし、心配だったんだ。
「わたしは大丈夫。前のように追い払えるわ。だから心配しないで行って!」
有無を言わせないような、強い言葉だった。
どのみちオレが残ったって、何もできやしないんだ。オレにはそれが痛いほどわかっていた。
オレが早く陸へ目指せば、彼女は一人でも、なんとか魔法を使って逃げられる。そうするしかないってわかっていた。早くしないと二人とも危険だった。
「早く!」
マーガレットに急かされて、オレは「ごめん!」と叫んだ。
そして海面目指して必死に泳いだよ。マーガレットが杖を振りかざしていたのが最後に見えて、後ろですげえ眩い光が走ったのがわかった……。
オレは無我夢中で泳いで、何とか海面に出た。
海の上は風が吹いていた。
海の中の出来事がみんな夢だったかのように思えるほど、とても静かだった。オレはマーガレットがどうなったのか気になった。けど早く安全な場所に行こうと陸を目指したんだ。
泳いでいくにつれ、すげえ懐かしい気持ちになって泣きそうになったよ。久しぶりに地面を踏むと、今までのことがみんな本当だったのかわからなくなりそうだった。
オレはずぶ濡れのまま真っ暗な夜道を歩いて、自分の家を目指した。
家の扉を叩くと、眠そうな目で親父が扉を開けた。「あっ」って言ってその目が見開かれて、親父がオレを抱きしめてくれた。母さんも起きてきて、すごく泣いていた。
あの商船は海に沈んで、乗組員はみんな死んだと町に伝わっていたらしい。
それもそうだよな。まさか人魚に助けられて生きている船乗りがいたなんて普通は思わねえ。それにあの船が沈んでから、もう一ヶ月経っていたんだ。オレはほんの六日程度のつもりだったんだけどな。月も太陽もない海の底だから、時間感覚が変になってたんだろうな。
オレは人魚の国のことを両親にしか言わなかった。二人はその話をちゃんと信じてくれたんだ。その首飾りは友だちとの友情の証なんだから、肌身離さず大事に持ってなさいって言って。
それからオレは別の船で働いて、経験を積んで、一端の船乗りになった。
それから女房と結婚して子供も生まれたってわけさ。
……とまあ、これがオレの体験した不思議な話さ。やっぱり頭から信じるのは難しいかい? まあ、信じる信じないはご主人の自由さ。
オレは、海で恐ろしい目に遭っても海を捨てなかった。
立派な船乗りになるのはオレの夢だったしな。
海は怖いもんだ。底なしで、落ちたら逃げ場はなくて、人を食う奴らもたくさんいる。けど、怖くて厳しいだけじゃねえって、オレは知ったんだ。
きっとオレはこれからも海の上で生きて、動けなくなるまで海に出るんだ。
彼女かい? オレはあれから、一度もマーガレットには会ってねえ。
多分、死ぬまで、もう二度と会えねえだろう。けど構いやしねえ。住む場所が違うんだから。けど一言、最後に助けてくれた礼だけは言いたかったな。
あの首飾りかい? ああ、もちろん今でも肌身離さず大事にしてるぜ。
今つけてるのがそうさ。おまじないの効果? そりゃあるさ。
マーガレットの魔法の力が込められた首飾りだからな。あれ以来、命に関わるようなトラブルは起こらねえな。小せえトラブルは日常茶飯事で、船の上はいつだって大冒険だけどな。
オレは海に出るとき、マーガレットが歌ってくれた歌を、海に向けて歌うんだ。
オレはまだ海にいるぜ、元気だぜって届けたくてな。
海の底には届いてないかもしれねえけど、オレはいつか、海の底からあの綺麗な歌声が聞こえるんじゃないかって、つい思っちまうんだよ。
今でも忘れられねえんだ。
海の底の王国で、あの綺麗な人魚のお姫様と出会った体験が。
マーガレットの歌声と一緒に、今でも目の奥でチカチカしてやがるんだ。
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